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人知れず徳を実践する、その姿がもっとも尊い
孔子は、「周の泰伯(たいはく)は、まさに“至徳(しとく)”の体現者だ」と評した。泰伯は本来、王位を継ぐべき長男だったが、父の意志を尊重し、自らその座を辞退した。しかもそれを誇示せず、世の中に知られぬよう慎んだ。人知れず行われたその譲りの徳... -
真の人格者は、外は柔らかく、内に燃える火を持つ
孔子の人柄は、一見して温和で親しみやすく、誰に対しても穏やかで柔らかい。しかしその内側には、強い信念と情熱、そして揺るがぬ厳しさがあった。また、威厳はあるが恐怖を与えるような激しさはなく、謙虚で礼儀正しいが、堅苦しさはない。このバランス... -
心に徳を持つ者は、おおらかで明るい
孔子は、「君子」と「小人」の違いを、心の状態と振る舞いの質に見ていた。君子(人格の高い人)は、心にやましさがないからこそ、坦然(たんぜん)としてのびのびとした様子であり、落ち着いていて余裕がある。一方、小人(つまらぬ人物)は、常に損得や... -
贅沢も倹約も、過ぎれば徳を損なう
孔子は、贅沢すぎることも、倹約しすぎることも、ともに人格を損なうと語った。贅沢が過ぎれば人は不遜(ふそん)=うぬぼれやごう慢になり、周囲に高圧的な印象を与える。一方、倹約が過ぎると、固(こ)=頑なでけちくさく、他人が寄り付きにくい人間に... -
本当に信じるなら、日ごろから誠を尽くすべき
孔子が病に倒れたとき、弟子の子路は心配し、神に祈ろうと申し出た。それに対して孔子はまず、「そうした祈りの習慣に、何か典拠があるのか」と問う。子路は、『誄(るい)』という死者をしのぶ文の中に「天地の神に祈る」とあることを引き合いに出すと、... -
聖人になれずとも、学び続け教え続ける志こそ尊い
孔子は、「聖人」や「仁者」と呼ばれるような人物には自分は及ばないと語った。しかしその上で、**「私は学ぶことを厭(いと)わず、教えることにも倦(う)まない――それが私という人間なのだ」**と自らの姿勢を明らかにする。これは、到達できるかどうか... -
知っていることと、できることは違う――実践してこそ学びは活きる
孔子は、自らの学びについて率直に語った。「書物を読み、知識を得ることは、人並みにできているかもしれない。しかし、それを君子としての行動にまで高めて実践することは、まだ十分にできていないのだ」と。これは、単なる謙遜ではない。孔子は、“知るこ... -
よいものに素直に感動し、喜びを共にする
孔子は、人と一緒に歌うとき、相手の歌が上手だと感じたら、すぐに自分の声を止めて、その人に最初からもう一度歌ってもらった。そして改めて、その歌に心から調和するように一緒に歌ったという。これは、よいものを見たときに素直に認め、さらにその喜び... -
沈黙と受容もまた、知者の姿勢である
陳の国の司法長官・司敗が孔子に尋ねた――「あなたの主君である魯の昭公は、礼を知っていたのですか?」孔子は「知っていた」とだけ答え、その場を去った。その後、司敗は孔子の弟子・巫馬期に対して、昭公が実は礼に反する結婚をしていたことを指摘し、孔... -
「よくありたい」と思う心が、すでに仁への一歩
孔子は、「仁(じん)」――つまり人としての最高の徳・人格は、決して遠い理想ではないと語った。「仁は遠くにあるものだろうか? 私が仁を欲すれば、そのときにはもう仁は自分の中にある」と。つまり、本気で“よき人間でありたい”と願う心があれば、その瞬...