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勢いに乗るより、静かに己を保つ者が、長く幸せを得る
権力者にすり寄ったり、時流に乗った成功者に取り入ったりすることは、一時の栄光を手に入れられるかもしれない。だが、その相手が地位を失えば、共に沈むことになり、その禍(わざわい)は実に惨たらしく、しかも意外なほど早く訪れる。それに対して、自... -
現実は“足るを知る心”で楽園となる
目の前の出来事が、理想郷にもなれば、俗世にもなる――その分かれ目は「足るを知る」心にある。どんなに小さな恵みも、「今あるものに満足できる人」にとっては、仙人の住む桃源郷のように感じられる。一方で、満たされることを知らず、常に不足ばかりを数... -
「無」へと近づくほど、日々は豊かに味わい深くなる
欲を減らし、さらに減らしていくと、やがて“無”の境地――すなわち何も求めない、執着のない生き方に至る。そんな境地では、ただ静かに花を植え、竹を育てて過ごす日々に、深い満足と愉しみがある。 忘れてはならないことさえ忘れ、気ままに香を焚き、茶を煮... -
一念が時間を変え、寸心が世界を変える
時間の長さも、空間の広さも、すべては“心のあり方”次第である。気持ちにゆとりのある人にとっては、たった一日でも千年より遥かに長く、豊かに感じられる。また、心が広く開かれている人にとっては、たとえ一斗升ほどの狭い部屋でも、天地のように大きく... -
欲にも空にもとらわれず、ただ自然に生きよ
名誉や財産を競い合う人々がいても、それはそれ。任せておけばよい。かといって、それを見下したり、わざと嫌悪する必要はない。彼らの生き方に酔っているとしても、それを無理に否定するのは、結局同じ土俵に立つことになる。 また、自分が「淡々と生きて... -
立派さに酔わず、自然体で楽しめばよい
地位や財産は、空に浮かぶ雲のようなもの。つかの間であり、やがて消えゆく儚い存在にすぎない。それを悟り、「富貴などは浮雲のようなものだ」と受け止められれば、それで十分なのである。なのに、さらに自分の“立派さ”にこだわり、仙人のように山に籠っ... -
熱のあとに冷を知り、騒のあとに静の滋味を知る
夢中で駆け抜けた時間も、あとから振り返ってみれば、果たして本当に意味があったのかと疑問が湧く。熱に浮かされたように奔走した日々――それは実のない空回りだったと、冷静な今になってはじめて気づくものである。また、あくせくと煩雑な状況を抜け出し... -
やめたいと思ったそのときが、“やめどき”である
「もうやめたい」と思ったその瞬間こそが、最良のタイミング――その感覚を信じてすぐに行動すべきである。迷いながらも「いずれ良い時期が来たらやめよう」と考えていると、結局やめるきっかけを逃し、ずるずると続けることになる。たとえば、「息子に嫁を... -
「悟り」は枯れではない――空を装うことは空にあらず
灯は燃え尽き、衣は破れ、身も心も冷えきって――それで「悟り」と言えるだろうか。確かに簡素や静けさは尊い。しかし、それが行き過ぎると、ただの演出となり、空虚さを装った“もてあそび”にすぎなくなる。身体は枯れ木のように無反応、心は死んだ灰のよう... -
火花のような一生に、角の上で争う愚かさ
人生とは、石と石がぶつかって瞬間に飛び散る火花のように、あっという間に過ぎ去るもの。それほど短い一生であるにもかかわらず、人は「自分の方が少し勝っている」「相手の方が少し劣っている」と、わずかな差を競い合っては争っている。また、この世の...