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欲深い心は静けさを壊し、欲のない心は騒がしさを越える
心のなかが“欲”でいっぱいの人は、静かに澄んだ深い淵に、波が沸き立つような状態にある。たとえ人里離れた山林に身を置いたとしても、その静寂を味わうことができない。 一方で―― 心のなかが“虚(から)”であり、欲望にとらわれていない人は、たとえ酷暑... -
老いと小ささを受け入れ、自然の中で精一杯に生きる
年を重ねれば、髪は抜け落ち、歯もまばらになる。この肉体は、まるで幻のように、やがてしぼみ、消えていく。 これは、人間の力では抗えない「自然の摂理」。だからこそ、無理に抗うのではなく、自然の流れに任せて生きる。 そして――鳥がさえずり、花が咲... -
人の好悪を越えて、天性のままを見るまなざし
人情の見方であれば、鶯(うぐいす)の鳴き声には美しさを感じて喜び、蛙(かえる)の鳴き声には騒々しさを感じて嫌がる。 また、華やかな花を見れば、それを育てたいと望み、雑草を見れば、それを抜いてしまいたくなる。 しかしそれらは、人の好みによっ... -
流れに任せて生きる――無執着と不動心の境地
自分の身は、つながれていない舟のようなもの。流れてもよし、止まってもよし――すべてを自然のままに委ねる。流れに逆らわず、無理に方向を定めようとせず、ただ、流れゆくままに身を任せる。 また、心は、もはや生気を失った枯木のようである。だから、た... -
心が乱れれば世界は敵に見え、心が静まればすべてが調和する
心が動揺していると、ほんの小さなことにも不安や恐れを抱いてしまう。たとえば――弓の影を見ては蛇やサソリだと疑い、草の中の石を見ては虎が伏せていると思い込む。このような状態では、見るものすべてが殺気をはらんで見え、心はますます恐れに染まって... -
知識ではなく、心で感じる――詩も禅も“味わう”ことが本質
たとえ一文字も読めなくとも――心に詩の情趣(こころ)がある人は、詩の世界を深く味わい、真の面白さを理解することができる。 また、一偈(いげ)も学んだことがない人であっても――禅の精神の“味”を心で感じ取ることができる人は、禅の奥深い極意にふれる... -
春の華やかさも良いが、秋の澄んだ美には及ばない
春の日は、万物が一斉に芽吹き、景色は華やかで心も朗らかになる。その**「気象繁華(きしょうはんか)」の美しさは、人の心をゆるめ、のどかでゆったりとした気持ち(駘蕩)**にさせてくれる。 しかし―― 秋の日には、白い雲と澄んだ風が広がり、蘭(らん... -
志を保ちながら、環境の力で心を整える
山深い林や、泉の湧く岩場――そうした自然の中を気ままに歩くことで、世俗の煩わしさに染まった心も、次第に静まり清められていく。 また、詩や書の読書にふけり、絵画をゆったりと鑑賞するような時間は、知らず知らずのうちに心を洗い、身に染みついた俗気... -
栄達を望まなければ、惑いも失望も近づかない
私が出世や栄誉を望まなければ、世間が差し出してくる**「利禄(りろく)」――大きな利益や高禄――という**香り高い誘惑(=香餌)に心を乱されることもない。 私が人と競って官職や名声を得ようとしなければ、誰かに足を引っ張られたり、策略に陥れられたり... -
理想郷は遠くにあらず――日常にこそ、喜びと静寂がある
竹垣のそばで犬が吠え、鶏が鳴く――ただそれだけの素朴な音が、ふと心をうっとりさせて、まるで雲の中にある仙人の世界にでもいるような気分にさせてくれる。 また、書斎にいると、いつも蝉の声が聞こえ、カラスの鳴き声が響く。そのときに初めて気づくのだ...