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厳しい季節の中に、次の芽吹きがひそんでいる
草や木が枯れ、葉が落ちたその根元には、すでに新たな芽がそっと顔を出している。冬の寒さがどれほど厳しくとも、やがて冬至が訪れ、竹筒に入れた灰が自然と飛び出して「一陽来復(いちようらいふく)」の兆しを告げる。 自然界の厳しさ――冷たくすべてを枯... -
心が澄めば、俗世もまた美しくなる
人の心に策略やたくらみがなくなると、まるで月が澄みわたるように、風までもが清らかに感じられてくる。 人生は、決して苦しみに満ちた海ばかりではない。心が欲望から離れてさえいれば、たとえ街中にいても、車馬の喧騒が気にならなくなるものだ。 本当... -
小さな努力の積み重ねが、大きな成果を生む
粗末な縄でも、長くこすり続ければ木を切ることができ、わずかな水滴でも、時間をかければ堅い石に穴をあける――それほどに「継続する力」は強く、学びの道においても同じことがいえる。 だからこそ、正しい生き方を求め、道を学ぼうとする者は、焦らず地道... -
幸福も不幸も、すべては心の持ち方しだい
人生が幸せなものになるか、不幸に満ちたものになるか――その分かれ目は、外の環境ではなく、自分自身の「心の在り方」にある。 釈尊はこう説いている:利得や欲望を求める心が燃えさかるとき、この世はたちまち炎の地獄と化す。貪りや執着に溺れれば、それ... -
自然とひとつになるとき、言葉はいらない
気分が高まり、心が自由になる瞬間――かぐわしい草の中を靴を脱いでのんびり歩いていると、野鳥さえも警戒心を忘れたように、すぐそばで共に時を過ごしてくれる。 また、風景と心がぴたりと重なったときには、舞い散る花の下で襟を開き、何も考えず、ただ静... -
自然に身を置くと、心が洗われ、本来の自分に還る
俗世間から離れ、山林に静かに暮らしてみると、心の中はすがすがしく澄みわたり、目に映るものすべてに趣が感じられるようになる。 たとえば――空にたなびく一片の雲や、野に佇む鶴を見ると、世俗を超越するような気持ちが芽生える。岩の間を流れる清流に触... -
真の静けさは「静けさを求める心」すらも忘れたところにある
騒がしさを嫌い、静けさを好む人が、ときに人を避けて孤独を選ぶことがある。しかしそれは、静寂への執着ゆえの選択であり、「人を避ける」という行為の裏には「我(わたし)」という心のとらわれが存在している。 つまり、静けさを求めるその心自体が、す... -
心が定まるまでは、欲望に近づかない
自分の判断力や心の安定がまだ確立していないうちは、俗世間――人の欲や騒がしさが満ちる場所――から距離を置くのが賢明だ。 欲望をかき立てるものを見ないようにして、心を乱さず、本来の静かな心を磨く。そうして不動の心ができあがれば、今度はあえて世間... -
去り際の美しさが、その人の品格を決める
宴もたけなわ、音楽や歌で場が最高潮に達しているとき――そこで自ら静かに衣の裾を払って、潔くその場を去る人物がいる。まるで断崖絶壁の上を手放しで歩くような見事な身のこなし。達人とは、こういう人を言うのだろう。 一方で、すでに時は深夜。宴はとう... -
どんな高名な教えでも、自分の頭で吟味する
もし心の中に最初から妄念(もうねん)がなければ、わざわざ“心を観よ”と修行する必要があるのだろうか?それなのに釈尊が「心を観ぜよ」と説けば、かえって本来なかった妄念を意識し始め、妨げが増えるのではないか? また、万物は本来一体であるのに、「...