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第十二章 君主が乱れて臣下が治まる
貞観十六年(642年)、太宗は側近の者たちに言いました。 「上に立つ君主が乱虐であっても、臣下が治まっていることがある。一方で、臣下が乱れていて、君主が治まっているという場合もある。このように、二つのことが食い違っている場合、どちらがよりひ... -
第十一章 国を治めるのは木を植えるのと同じ
貞観九年(635年)、太宗は側近の者に言いました。 「かつて、初めて隋の都・長安を平定した時、宮中の宮殿はどこも美女や珍しい宝物で満ち溢れていた。しかし、煬帝はそれでも足りないと思い、取り立てをやめることなく、東西に遠征し、武力を使って理由... -
第十章 恩賞よりも税を軽くする方が大事
貞観八年(634年)、太宗は側近の者たちに言いました。 「隋の時代には、人民がいくら財貨を持っていても、それを保ち続けることはできなかっただろう。私が天下を治めるようになってから、人民の養育に専心し、重い租税や労役を課すことはしなかった。人... -
帝道と王道の理解
貞観七年(633年)、太宗は魏徴とともに古来の政治の良し悪しについて話し合っていました。太宗は言いました、「今は隋末の大乱の後なので、すぐには治まった世を作ることはできないだろう」と。しかし、魏徴はこう答えました。「そうではありません。およ... -
忠臣誅殺の故事
貞観六年(632年)、太宗は側近の者たちに言いました。「古人は『危うい時に手を差し伸べず、転んだ時に助けないのであれば、何のために付き添っているのか』と言っています。君臣の道義も同じです。臣下は忠義を尽くして君主を正し、助けるべきではないで... -
民は恐るべし
貞観六年(632年)、太宗は側近の者たちに言いました。「古来の帝王を見てみると、盛りがあれば衰えがあり、ちょうど朝があれば日暮れが来るのと同じだ。それはすべて、臣下が君主の耳目を覆い隠してしまい、君主は時の政治の善悪がわからないからだ。忠義... -
国の統治と人の病気は同じ
貞観五年(631年)、太宗は側近の者たちに向かって言いました。「国を治めるのと病気を治すのとには、違いがない。病人が治ったと思った時こそ、いよいよ養生しなければならない。もし禁じられていることを破れば、必ず命を落とすことになるだろう。国を治... -
隋の文帝の政治と理想的な政治の違い
貞観四年(630年)、太宗は蕭瑀に尋ねました。「隋の初代皇帝、文帝はどのような君主であったか?」蕭瑀は答えました。「文帝は私欲を抑え、天の理に立ち返り、政治に勤しみました。朝廷に座っていると、日が傾く時刻まで過ごしてしまうこともありました。... -
詔勅起草における議論の重要性
貞観三年(629年)、太宗は側近の者たちに向かって言いました。「中書省と門下省は、国家の中枢を担う重要な官署であり、だからこそ才能ある者を抜擢して任命しています。その任務は非常に重いものであり、もし詔勅に理に適っていない点があれば、徹底的に... -
昔と今の政治家の違い
貞観二年(628年)、太宗は黄門侍郎(門下省副長官)の王珪に尋ねました。「最近、君臣が国を治める方法が、昔より劣っていることが多いのはなぜだろうか」と。王珪は答えて言いました。「昔の帝王は、政治を行う際、すべて志を静謐に保ち、人民の心を自分...