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第九章「魏徴の質素な生活ぶりに敬意を表す」解説
◆ 現代語訳 魏徴(ぎ・ちょう)の家には、客を迎えるための正式な広間(正堂)がなかった。 あるとき魏徴が病に倒れた。 そのころ太宗は、小さな宮殿を新しく造ろうとしていたが、魏徴の病を知ってその建築を中止し、予定していた建築資材を使って魏徴の家... -
第八章「温彦博の葬儀」解説
◆ 現代語訳 **温彦博(おん げんはく)**は、**尚書右僕射(しょうしょ うぼくや)**という高い官職にあった。 しかしその家は貧しく、客を迎えるための正式な広間(正寢)すらなかった。 やがて温彦博が亡くなった時には、遺体を安置する場所がなく、日常... -
第七章「戴冑のボロ家」解説
◆ 現代語訳 **戸部尚書(こぶしょうしょ)である戴冑(たいちゅう)**が亡くなった。 彼の住居は、古く粗末な家屋であり、葬儀を行うための適当な場所も確保できないほど貧しく、質素なものであった。 それを知った太宗は深く心を動かされ、役所に命じて、... -
第六章「岑文本の謙虚ぶり」解説
◆ 現代語訳 岑文本(しんぶんほん)は、唐の中枢機関である中書省の長官(中書令)となったが、その住まいは湿気の多い低地にあり、住環境は貧しく、飾りといえばカーテンさえもなかった。 そんな彼に、ある者が**「商売や副業でも始めて金儲けをすればど... -
第五章「度を外れた贅沢な葬儀は禁止」解説
◆ 現代語訳と要旨 貞観十一年(637年)、太宗は詔(みことのり)を発し、過剰な葬儀を厳しく禁じる政策を打ち出しました。 「私は聞いている。死とは、生命の終焉であり原初に還ること。葬とは、埋葬して人目から隠すことである。古代の風習では、墓に盛り... -
第四章「五胡十六国の君主の教訓」解説
◆ 現代語訳 貞観十六年(642年)、太宗が側近に語った。 「最近、私は劉聡の伝記を読んだ。劉聡は、劉皇后のために立派な儀殿(式典用の宮殿)を造ろうとしたが、廷尉(司法長官)の陳元達が強くこれを諫めた。すると、劉聡は激怒して、陳元達を斬ろうとし... -
第三章「己の欲せざる所、人に施すなかれ」解説
◆ 現代語訳 貞観四年(630年)、太宗が側近たちに語った。 「宮殿を飾り立てたり、池に楼閣を設けて遊ぶのは、帝王としての私の望むことかもしれない。しかし、それは民衆が望むことでは決してない。帝王の『望むこと』は放縦な遊びだが、民にとってはその... -
第二章「漢の文帝に学べ」解説
◆ 現代語訳 貞観二年(628年)、王公・大臣たちが太宗に上奏した。 「『礼記』には、夏の終わり(旧暦の季夏=6月)には暑気を避けて高い建物に住むべしとあります。今はちょうど夏の残暑が厳しく、秋の長雨も始まり、宮中は低地にあるため湿気が多くてお... -
第一章「為政者の贅沢と民衆の気持ち」解説
◆ 現代語訳 貞観元年(627年)、太宗(李世民)は側近たちに語った。 「昔からの帝王は、建築など事業を起こす際には、必ず民衆の心に逆らわないことを第一とした。たとえば大禹が九つの山を削り、九つの大河を通して洪水を治めた時には、非常に多くの人民... -
第四章「項羽は信に欠けていた」
■現代語訳 貞観十七年(643年)のある日、太宗は側近に語りました。「『論語』には、『食を捨てても信を捨ててはならない』と記されている。孔子もまた、『民に信がなければ国は成り立たない』と述べている。 昔、項羽が咸陽(秦の都)に入ってすでに天下...