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第四章 役に立たない物は作るな
【現代語訳】 貞観七年(633年)のこと、工部尚書(尚書省の建設・製造関連を主管する官庁の長官)であった**段綸(だんりん)**が、**楊思斉(ようしせい)**という巧みな技術を持つ職人を太宗に推薦した。 楊思斉が召され、太宗が何か作らせようとしたと... -
第三章 迷信は無駄なこと
【現代語訳】 貞観四年(630年)、太宗は語った。 「隋の煬帝は、猜疑心が強く、迷信を信じやすい性格だった。西方の人々(異民族)を忌み嫌い、胡人の椅子である“胡牀”を“交牀”と呼び替え、胡瓜(西方から伝来したキュウリ)を“黄瓜”と呼び替えた。また、... -
第一章 仏教・道教より政治の教えが大事
【現代語訳】 貞観二年(628年)、太宗は側近に語った。 「古人は『君主は器、民は水である。器が四角であれば水も四角、器が丸ければ水も丸くなる』と言っている。つまり、民衆の形は君主の形に従う。だから、堯や舜は仁徳によって天下を治め、民も仁を好... -
第四章 慈愛の行為で兵士を奮い立たせる
■現代語訳 貞観十九年(645年)、太宗は高句麗(朝鮮半島北部)への遠征を行い、唐軍は定州(現在の河北省定県)に宿営した。 兵士たちが次々と到着する中、太宗は自ら定州城の北門の望楼に立ち、兵士たちを出迎えて労(ねぎら)った。 その時、一人の兵士... -
第三章 悲しみに占いは関係ない
■現代語訳 貞観七年(633年)、襄州の都督(地方の軍事長官)**張公謹(ちょうこうきん)**が亡くなったという知らせが届いた。 この訃報を聞いた唐の太宗(李世民)は深く嘆き悲しみ、宮殿から別の場所に移動して、正式に喪を発表した(※礼儀に則って哀悼... -
第二章 飢饉で売られた子を買い戻す
■現代語訳 貞観二年(628年)、関中地方(長安周辺)は日照り続きで雨が降らず、大きな飢饉が発生した。これを受けて太宗は側近にこう語った。 「洪水や干ばつといった天候の異変は、すべて君主である私の徳が至らないために起こることである。もし私に徳... -
第一章 宮中の女性たちを解放せよ
■現代語訳 貞観の初め頃のこと、太宗は側近たちにこう語った。 「宮中の女性たちは深い宮殿に閉じ込められており、その心情を思うと本当に哀れである。隋の末期には、宮女を集めることに歯止めがなく、皇帝が足を運ばない離宮や別館にまで、多数の女性を集... -
第三章 謙虚な皇族、河間王孝恭と江夏王道宗
■現代語訳 河間王・李孝恭は、唐の建国初期である武徳年間に趙郡王に封じられ、その後、東南地域を統治する臨時政府機関(行台)の尚書左僕射という高官に任命された。 このとき孝恭は、隋の滅亡後に南方で勢力を握っていた群雄・蕭銑や輔公祐を平定し、長... -
第二章 天子は能を隠して衆に臨め
■現代語訳 貞観三年(629年)、太宗は給事中(上奏・伝達役)の孔穎達に質問した。 「『論語』にこうある――『能力があるのに無能の者に尋ね、知識があるのに無知の者に教えを請い、才知があるのに無いかのように振る舞い、実力があってもそれを見せず空虚... -
第一章 慎み深い心を最後まで持ち続ける人は少ない
■現代語訳 貞観二年(628年)、太宗が側近にこう語った。 「世の人は、『天子となったら威厳を誇って恐れるものなどない』というが、私はそれに反対で、自らを謙遜に保ち、常に畏れ慎むべきだと考えている。昔、舜が禹にこう戒めた。『お前が自分の能力を...