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伯夷の風に触れれば、誰もが心を正す
孟子は、伯夷(はくい)の清廉潔白な生き方を称え、その人格に触れるだけで欲深な者も清くなり、臆病な者も志を立てるようになると述べた。伯夷は、ただ不正を避けたのではなく、時勢に応じて進退し、礼をもって交際の是非を定める徹底した人倫主義者であ... -
検証なき噂は信じるに足らず――百里奚の「賢」と「恥」をめぐって
孟子は、百里奚(ひゃくりけい)が羊皮五枚で身を売り、牛飼いとして秦に仕官したという俗説をきっぱり否定する。百里奚は、諫言が通じぬ君主を見限り、七十の老年で秦に去った人物。その判断力と時勢観、恥を知る品格を備えた「賢者」であり、自己を売っ... -
人の価値は、誰と交わるかで見えてくる
孟子は、孔子が災難に遭っても節義を保ち、身を寄せる相手を選んだことを例に、**「人を見るには、その人が誰と付き合うかを見よ」**という古人の知恵を説く。もし孔子が、本当に腫物医者や宦官に身を寄せていたならば、彼の聖人としての価値など無に等し... -
礼と義をもって仕え、天命を待つ――孔子の潔い進退
孟子は、孔子が仕官のために卑しい者の家に身を寄せたという俗説を否定し、その生き様がいかに「礼」と「義」にかなっていたかを語る。孔子は進んで仕えるときには礼に外れず、退くときにも義を忘れなかった。だからこそ、地位や成功の有無は自分の意志で... -
世を正すには、まず己を正す――潔き身こそ聖人の根本
孟子は、他人や天下を正そうとする者が、まず自らの行いを潔くすることが前提であると明言する。どれほど偉大なことを成すにしても、身を辱めたり道義に反する手段を取ってはならない。そして伊尹の逸話を引きつつ、「料理人として取り入った」などという... -
先覚者とは何か――義のために世に出る決意
孟子は、伊尹(いいん)が当初出仕を拒みながら、最終的には湯王(とうおう)に仕えた動機を明らかにし、真の「先覚者(せんかくしゃ)」とは何かを説く。伊尹は仁義の道を一人楽しむよりも、君を聖人とし、民を聖なる民とし、自らその実現をこの目で見よ... -
義に非ずんば取らず――伊尹に見る「志の潔さ」
孟子は、伊尹(いいん)が料理人として湯王に取り入ったという俗説をきっぱりと否定する。伊尹は、義(ぎ)にかなわない行動や、道(みち)に外れた行いを絶対にしなかった人物であり、天下を与えられようと、四千頭の馬を差し出されようと、動じなかった... -
位を譲るも、継がせるも――すべては天の義にかなう道
孟子は、堯・舜による賢者への禅譲と、夏・殷・周に見られる血縁による継承(継嗣)とを対立的に捉えるべきではないと語る。賢者に譲ることも、子に継がせることも、天命に基づいていればその「義」は等しく正しいのである。その証として、伊尹(いいん)... -
天命は人の力を超えて働く――徳のみでは天下を得られぬ理由
孟子は、舜・禹・益の継承と、その子や後継者たちの賢不肖の違いを通して、天命と人力の限界を明確に説いた。舜や禹のような人物が天下を得たのは、高い徳と、天子からの推薦という二つの条件が揃っていたからであり、孔子が天下を得なかったのは、徳はあ... -
天下は「子」か「賢」か――天が選ぶのはその時ふさわしき者
孟子は、禹(う)が賢者に位を譲らず子に伝えたことを「徳の衰え」と見る通俗の見方を否定する。天は賢者に与えるべきときは賢者に、子に与えるべきときは子に与えるのだと説く。その判断基準は天自身が下すものであり、誰が実際に支持され、受け入れられ...