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■引用原文(日本語訳)
「私は彼らが戦おうとしているのを見る。
戦争において、愚かなドリタラーシトラの息子を喜ばせようと、ここに集まった人々が。」
―『バガヴァッド・ギーター』第1章 第23節
■逐語訳(一文ずつ)
- 「私は見たいのだ、彼らが誰であるかを。
- 彼らは戦争において、愚かなドリタラーシトラの子(ドゥルヨーダナ)を喜ばせようとして、
- この戦場に集っている。」
■用語解説
- ドリタラーシトラの息子(ドゥルヨーダナ):カウラヴァ軍の主導者で、傲慢と権力欲に駆られた存在として描かれる。
- 愚か(ムーデー):ここでの「愚か」は単なる知識不足ではなく、真理や義に背いて執着に溺れる心の在り方を指す。
- 彼らが戦おうとしているのを見る:アルジュナの視線は戦略ではなく「人間関係」と「動機」に注がれており、葛藤の深まりを表す。
- 喜ばせようと(プリーヤアルトハー):他者の欲望や利益のために動くことの無意味さ、あるいは危うさを示す表現。
■全体の現代語訳(まとめ)
アルジュナは、敵軍に集まっている人々が、ただ「ドゥルヨーダナを喜ばせる」ために戦争に参加していると見抜く。そして、そのような戦いに巻き込まれている彼らの顔を、自らの目で確認しようとしている。つまり、「この戦争は誰のためのものなのか」「どんな動機で人々は武器を手にしているのか」を問い始めた瞬間である。
■解釈と現代的意義
この節は、「動機の純粋性」に対する疑問を投げかけています。戦っている人々が、自らの信念や正義のためではなく、愚かなリーダーのご機嫌取りや権力維持のために動いているとしたら、その戦いには意味があるのか?――アルジュナはそう問うています。
これは現代の組織や社会にも通じます。仕事やプロジェクトが、本当に価値ある目的に基づいているのか、それとも誰かのエゴや虚栄心のために進められているのか。私たちは日々、そうした「見えにくい動機」の中に立って判断を迫られているのです。
■ビジネスにおける解釈と適用
観点 | 適用例 |
---|---|
目的と動機の見直し | プロジェクトや施策を実行する前に、「これは誰のためか」「何のためか」を再確認する必要がある。 |
エゴ主導のリスク | リーダーや上層部の一存による「見せかけの勝利」を目指した行動は、長期的に組織を損なう。 |
人材の士気と共感 | 真に意味ある目標であれば人は心から動くが、誰かを“喜ばせるためだけ”の目標では士気は続かない。 |
リーダーシップの責任 | 指導者が「自分のため」に人を動かすのか、「皆のため」に自ら動くのかで、組織の方向性は変わる。 |
■心得まとめ
「誰かを喜ばせるための戦いなら、その戦いは再考せよ」
本当に戦うべきなのか。誰のために、何のために、その行動を起こそうとしているのか。アルジュナは、目の前の敵ではなく、「戦いの動機そのもの」に疑問を持ち始めた。行動する前に、その源にある“意志の純度”を見極めよ。それが、誤った戦いを回避する唯一の方法である。
次の節では、クリシュナが戦車を両軍の間に進め、アルジュナの目の前に「真の葛藤の相手」となる人々を映し出します。
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