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すべてに打ち克ち、何ものにも揺らがない者こそ、真の安らぎにある


目次

📜引用原文(日本語訳)

第三九偈
永久にときほごされて安らぎに帰した修行僧にとっては、
いかなる生存も打ち克たれ、未来において静まっている。
それが苦しみの終末とよばれる。
― 『ダンマパダ』 第二章 第三九偈


🔍逐語訳(文ごとの意訳)

  • 永久にときほごされて安らぎに帰した修行僧にとっては:永遠に束縛(煩悩・執着)から解き放たれ、心の静けさに至った修行者にとっては、
  • いかなる生存も打ち克たれ:いかなる存在形態(生・老・死、欲望や執着)も、すでに超越されている。
  • 未来において静まっている:彼の未来にはもはや動揺や再生(輪廻)はなく、完全なる静寂の境地がある。
  • それが苦しみの終末とよばれる:これこそが、仏教で言う「苦しみの完全なる滅尽(ニルヴァーナ)」である。

📚用語解説

用語解説
ときほごされる(解脱)執着・煩悩・輪廻の束縛から完全に自由になること。
生存(存在)生老病死を繰り返す一切の現象的存在。欲望に基づく再生の連鎖。
打ち克つ(ヴィジャヤ)心の弱さ・誘惑・煩悩に負けることなく、超越すること。
静まり(静寂、涅槃)変化も煩悩もない安らぎの境地。生も死も超えた状態。
苦しみの終末(ドゥッカ・ニローダ)苦しみの原因が完全に滅した結果としての、最終的な安らぎ(涅槃)。四聖諦の「滅諦」に該当。

🪞全体の現代語訳(まとめ)

真に解脱した修行者は、
煩悩という束縛を永久に解き放ち、
安らぎの境地にたどり着いた者である。

その人にとっては、いかなる欲望や迷いの世界も、
もはや乗り越えられた対象であり、未来にも揺らぎはない。

これこそが、「苦しみが完全に終わった」状態――
仏教が説く、最終目的地である。


🧠解釈と現代的意義

この偈は、「すべてを超えてなお静かな者」の姿を描いています。

私たちはふだん、過去の後悔や未来の不安に悩まされ、
周囲の言動や結果に心を揺らされがちです。

しかし、仏教が理想とする境地は、
**何ものにも縛られず、勝ち負けに翻弄されず、未来にも恐れを持たない状態――
それが”静けさの完全な達成”(涅槃)**なのです。

この境地を実現するには、内的な成熟・心の訓練・執著からの自由が必要であり、
それは単なる知識や行為では到達できない、深い智慧の果実です。


💼ビジネスにおける解釈と適用

観点応用例
ブレないリーダーの姿勢組織変化や外部要因に動じない人物は、既に「何ものにも打ち克った」落ち着きを持つ。
中長期的な視座を持つ判断利益や成果を追うだけでなく、未来を見据えた静かな判断力が苦悩を減らす。
心の自由を得た働き方評価・昇進・報酬といった“外の条件”に左右されず、自分の納得と価値に従って動く。
真の安定=精神的成熟職位や権限で得る「安定」ではなく、どこにいても揺るがない内面の確立こそ真の自由。

✅心得まとめ

「心がすべてに勝ったとき、未来は静寂で満ちる」

煩悩を超え、すべてに打ち克った者には、
過去の傷も、未来の不安も、もはや波立たない。

それが「苦しみの終わり」であり、
あらゆる努力が目指す、究極のやすらぎなのである。

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