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人を受け入れる教育は、過去よりも「志」を見る

孟子がある国に滞在し、上宮(離宮の宿舎)に宿泊していたとき、館内で事件が起こった。
窓の上に置かれていた作りかけの靴(業屨)が紛失し、宿の者が探しても見つからなかったのである。

するとある人が、「先生の従者が隠したのでは」と孟子に疑いを投げかけた。
それに対して孟子は、こう答える:

「あなたは、私の従者が靴を盗みに来たとでも思っているのですか」
「私は『去る者は追わず、来る者は拒まず』の方針で弟子を受け入れている。
道を求めようという心さえあれば、私はそれを受け入れる。
だから、未熟な者の中には過ちを犯す者もいるかもしれないが、それは問題ではない」

孟子の言葉は、教育の本質が「志を見て、人を育てる」ことであることを明確に示している。
過去の過失や未熟さを理由に、学びたい者を排除してはならない。
むしろ、「学びたい」という心こそが受け入れる条件であり、そこに過去の行いは問われない。

この教えは、後の吉田松陰にも強い影響を与え、**松下村塾の方針「往く者は追わず、来る者は拒まず」**として明文化される。
さらに松陰はこれに加えてこう言う:

  • 「来る者の過去の過失を記憶せず
  • 「去った者の過去の善行を忘れず

これは、教育者の度量、そして人格の信頼が人を育てるという姿勢を体現した言葉である。


引用(ふりがな付き)

「孟子(もうし)之(ゆ)きて、上宮(じょうきゅう)に館(やど)す。牖上(まどのうえ)に業屨(ぎょうく)有(あ)り。館人(かんじん)之(これ)を求(もと)むれども、得(え)ず。或(ある)ひと之を問いて曰(いわ)く、是(か)くの如(ごと)きか、従者(じゅうしゃ)の廋(かく)すや。
曰(いわ)く、子(し)は是(こ)れ屨(くつ)を竊(ぬす)むが為(ため)に来(きた)れりと以(も)うか。曰く、殆(ほとん)ど非(ひ)なり。
夫(そ)れ予(われ)の科(か)を設(もう)くるや、往(ゆ)く者(もの)は追(お)わず、来(き)たる者は拒(こば)まず。苟(いやし)くも是(こ)の心(こころ)を以(もっ)て至(いた)らば、斯(こ)れ之(これ)を受(う)くるのみ」


注釈

  • 業屨(ぎょうく)…作りかけの靴。未完成の品、学び途中の者の比喩とも取れる。
  • 去る者は追わず、来る者は拒まず…志をもって来る者は誰でも受け入れるという教育の姿勢。
  • 苟(いやし)くも是の心を以て至らば…学びたいという真心があれば、それで十分。
  • 招ぐ(つなぐ)…足を縛ること。束縛や過度な管理を意味する。

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