――“私”と“自然”の境目は、もはや消えている
高い窓のすだれをふと持ち上げ、
外を見やれば、青々とした山々と緑の谷川から、雲とかすみが自由に出入りしている。
その風景には、天地自然が“自在”に呼吸し、動き続けている様子が映し出されている。
視線を移せば――
茂った竹や樹木のあいだから、燕が巣をつくりヒナを育て、山鳩がのびやかに鳴いている。
まさにそこには、四季がきちんとした“時の秩序”をもって、何の力みもなくめぐっている。
そうした自然を、ただじっと見ていると――
“自分”と“自然”という区別が、ふとどうでもよくなってくる。
自分はいつのまにか、その天地と一体になって生きている。
物(自然)と我(人間)を隔てる境界は、いつのまにか消えている。
引用(ふりがな付き)
簾櫳高敞(れんろうこうしょう)にして、青山(せいざん)緑水(りょくすい)の雲煙(うんえん)を呑吐(どんと)するのを看(み)て、
乾坤(けんこん)の自在(じざい)なるを識(し)る。
竹樹(ちくじゅ)扶疎(ふそ)として、乳燕(にゅうえん)鳴鳩(めいきゅう)の時序(じじょ)を送迎(そうげい)するに任(まか)せて、
物我(ぶつが)の両(りょう)つながら忘(わす)るるを知(し)る。
注釈
- 簾櫳高敞(れんろうこうしょう):簾(すだれ)のかかった高い窓。風と光に開かれた静かな空間。
- 乾坤(けんこん):天地。自然界そのもの。『老子』や『荘子』にも頻出する宇宙の構造概念。
- 扶疎(ふそ):木々が豊かに茂るさま。
- 時序(じじょ):四季の流れ。春夏秋冬が秩序正しく循環すること。
- 物我両忘(ぶつがりょうぼう):自然と自分が区別なく一体になること。禅や老荘思想に通じる概念。
関連思想と補足
- 『老子』では「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」(第二十五章)とあり、
人も自然の一環として、無理なく“道”に従って生きるべきであると説かれている。 - 禅では、物と我の対立を超え、心と世界が一体化する境地を「物我一如」「無分別智」などと呼ぶ。
- まさに本項は、風景の中に自分を溶かし、宇宙と一つになるような安らぎの体験を描いている。
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