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相手の心に“仁”を見つけ、それを伸ばすのが本当の導き

孟子は斉の宣王に向かって、ある逸話を引き合いに出す。

ある日、王が御殿の上に座していたとき、儀式用の鐘に血を塗るために引かれていく牛の姿を見た。

王はその様子を見て問いかける:

「その牛はどこへ連れていくのか?」

「鐘の開眼儀式のためです」と家臣が答えると、王はこう言った:

「やめよ。その牛が恐れおののいているのを見ると、まるで罪もないのに死に向かっているようで、見るにしのびない」

家臣は「では儀式を廃止しますか」と聞くが、王はそれを否定し、「羊を代わりに使え」と命じた。

孟子はこれを例に挙げて、

「この“忍びざる心”こそ、王者たるに足る心です」

と評価する。そしてこう続ける:

「世間の庶民は、王が牛を惜しんで羊に代えたのを“けちだから”と思っているようですが、私はそうではないと確信しています。王には“命を惜しむ心”があると知っています」

このように孟子は、王の中にある善意の萌芽を見逃さず、明確に肯定してみせる。それによって、王が自らの“仁”を自覚し、それを伸ばすように仕向ける――まさに「教育」の本質とも言える姿勢である。


引用(ふりがな付き)

「曰(い)く、王(おう)堂上(どうじょう)に坐(ざ)す。牛(うし)を牽(ひ)いて堂下(どうか)を過(す)ぐる者(もの)有(あ)り。王之(これ)を見(み)て曰く、牛何(いず)くにか之(ゆ)く、と。
対(こた)えて曰く、将(まさ)に以(もっ)て鐘(かね)に釁(くま)らんとす、と。王曰く、之を舎(や)めよ。吾(われ)、其(そ)の觳觫(こくそく)として、罪(つみ)無(な)くして死地(しち)に就(つ)くが若(ごと)きに忍(しの)びず、と。
対えて曰く、然(しか)らば則(すなわ)ち釁鐘(くまがね)を廃(はい)せんか、と。曰く、何(なん)ぞ廃すべけん。羊(ひつじ)を以て之に易(か)えよ、と。
識(し)らず諸(これ)有(あ)りや、と。曰く、之有り、と。曰く、是(こ)の心(こころ)以(もっ)て王(おう)たるに足(た)る。百姓(ひゃくせい)皆(みな)王を以て愛(お)しめりと為(な)すも、臣(しん)は固(もと)より王の忍びざるを知(し)るなり。」


注釈

  • 觳觫(こくそく)…恐れおののく様子。
  • 釁鐘(くまがね)…鐘に血を塗る古代の宗教的儀礼。
  • 忍びざる心…相手の苦しみを見過ごせない心。孟子が「惻隠の心」と呼ぶ、仁の根本。
  • 百姓(ひゃくせい)…一般庶民。
  • 愛しめり…物惜しみ。けちだという意味。

パーマリンク案(英語スラッグ)

  • nurture-the-good-in-others(他人の善を育てよ)
  • rule-by-compassion(思いやりこそ王者の資格)
  • find-strength-in-kindness(やさしさにこそ力がある)

補足:教えるとは、責めずに伸ばすこと

孟子は、王の決断に対して非難ではなく承認を与えることで、王の中にある“仁”の萌芽を育てようとしています。

仮に「けちだから牛を惜しんだ」という見方が一理あったとしても、孟子はそこにあえて焦点を当てず、“命を惜しむ心”という善の種を評価します。

これは、教育・マネジメント・対話における最も高度な指導法の一つであり、相手の中の善を見出し、それを言葉によって照らし出す技術です。

吉田松陰も、この「非難せず、発奮させる」孟子のやり方を極めて高く評価し、自らの教育にも取り入れていたとされます。

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