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天災を過ちとせず、政を磨く契機とせよ

貞観十一年、大雨による大洪水が洛陽を襲った。太宗はこれを「自身の不徳による天罰」と受け止め、自らを責め、贅を慎み、家臣たちに政道の是非を諫言させた。

しかし、これに対して中書侍郎・岑文本は進言する――
「今の被害は天候の自然現象によるものであり、陛下が必要以上に悩むことではありません。むしろ大切なのは、日頃から人民を慈しみ、国を安んじる姿勢を失わぬことです」

彼は人民を若木に喩え、未だ根が張り切らぬこの時期に過度な負担をかければ、人心が離れ、政治の基盤が揺らぐと説いた。
そして、為政者は民の苦しみに寄り添いながら、慎みと倹約を重ねて政を継続するべきだと進言した。
そのうえで、「天候の災害を天罰ととらえて塞ぎ込む必要はありません」と結んでいる。

真の徳政とは、災害の原因を一身の過失に求めることではなく、変わらぬ誠意で政を尽くすことにある。


原文(ふりがな付き)

貞觀(じょうがん)十一年、大雨(たいう)ありて穀水(こくすい)溢(あふ)れ、洛門(らくもん)を衝(つ)き、洛陽宮(らくようきゅう)に入り、
平地(へいち)五尺(ごしゃく)に及(およ)び、宮寺(きゅうじ)十九(じゅうきゅう)を毀(こわ)し、七百余家(しちひゃくよか)を漂(なが)す。

太宗(たいそう)、侍臣(じしん)に謂(い)いて曰(いわ)く、
「朕(ちん)の不徳(ふとく)の致(いた)す所(ところ)、皇天(こうてん)災(わざわい)を降(くだ)す。
視聴(しちょう)明(あき)らかならず、刑罰(けいばつ)に失度(しつど)ありて、陰陽(いんよう)を舛謬(せんびゅう)せしめ、雨水(うすい)常(じょう)に乖(そむ)く。
物(もの)を矜(あわ)れみ己(おのれ)を罪(つみ)し、載(いた)く憂惕(ゆうてき)を懐(いだ)く。
又(また)何(なん)ぞ独(ひと)り滋味(じみ)を甘(あま)んずべけんや。
尚食局(しょうしょくきょく)に令(れい)して肉料(にくりょう)を断(た)ち、蔬食(そしょく)せしむべし。
文武百官(ぶんぶひゃっかん)、各(おのおの)封事(ふうじ)を上(たてまつ)り、得失(とくしつ)を極言(きょくげん)せよ」

中書侍郎(ちゅうしょじろう)岑文本(しんぶんぽん)、封事(ふうじ)を上(たてまつ)りて曰く、
「開(ひら)きて乱(みだ)れを撥(はら)うの業(ぎょう)は、その功(こう)難(かた)く、
既(すで)に成(な)った基(もとい)を守(まも)るは、その業(わざ)易(やす)からず。
安(やす)きに居(お)りて危(あや)うきを思(おも)い、始(はじ)めて終(お)わる、これ業(ぎょう)を定(さだ)むるの道(みち)なり。

今(いま)億兆(おくちょう)安(やす)らかにして、方隅(ほうぐう)謐(しず)かなるといえども、
喪乱(そうらん)の後(のち)を承(う)け、凋弊(ちょうへい)の余(あま)りを接(う)く。
口(くち)減損(げんそん)して多(おお)く、田畴(でんちゅう)開闢(かいびゃく)すること少(すく)なし。

恩(おん)の燾(とう)著(あら)われたりといえども、瘡痍(そうい)未(いま)だ復(ふく)せず。
徳(とく)の風(ふう)被(こうむ)るといえども、民(たみ)しばしば空(むな)し。

是(ここ)を以(もっ)て古人(こじん)はこれを樹(き)を種(う)うるに譬(たと)う。
年祀(ねんし)綿(つら)なれば、枝葉(しよう)扶疏(ふそ)す。
若(も)し種(う)うるの日(ひ)浅(あさ)く、根本(こんぽん)未(いま)だ固(かた)まらずんば、
黒墳(こくふん)を壅(よう)し春日(しゅんじつ)に養(やしな)うといえども、一人(いちにん)これを搖(ゆ)すれば、必(かなら)ず枯槁(ここう)す。

今(いま)の百姓(ひゃくせい)、頗(すこぶ)るこれに類(るい)す。
常(つね)に含養(がんよう)を加(くわ)うれば、日(ひ)に滋息(じそく)し、
暫(しばら)く征役(せいえき)あれば、すなわち凋落(ちょうらく)す。
甚(はなは)だしければ、人(ひと)聊生(りょうせい)せず。

人(ひと)聊生(りょうせい)せざれば、怨気(えんき)充塞(じゅうそく)し、
怨気(えんき)充塞(じゅうそく)すれば、離叛(りはん)の心(こころ)生(しょう)ず。

是(こ)れを以(もっ)て帝舜(ていしゅん)は曰(いわ)く、
『愛(あい)すべきは君(きみ)に非(あら)ずや。畏(おそ)るべきは民(たみ)に非(あら)ずや』と。
孔安国(こうあんこく)曰く、
『人(ひと)は君(きみ)を以(もっ)て命(いのち)と為(な)す。故(ゆえ)に可(か)く愛(あい)す。
君(きみ)道(みち)を失(うしな)えば、人(ひと)これに叛(そむ)く。故(ゆえ)に可(か)く畏(おそ)る』と。

仲尼(ちゅうじ)曰く、
『君(きみ)は舟(ふね)なり、人(ひと)は水(みず)なり。水(みず)以(もっ)て舟(ふね)を載(の)すも、
また以(もっ)て舟(ふね)を覆(くつがえ)す』と。

是(こ)れを以(もっ)て古(いにしえ)の哲王(てつおう)は、休(よ)しといえども休(やす)まず、
日(ひ)に愼(つつし)むこと一日(いちにち)たりしは、良(まこと)にこのためなり。

臣(しん)伏(ふ)して惟(おも)うに、陛下(へいか)は古今(ここん)の事(こと)を覧(み)て、安危(あんき)の機(き)を察(さっ)し、
上(かみ)は社稷(しゃしょく)を重(おも)んじ、下(しも)は億兆(おくちょう)を念(おも)う。

明(めい)を以(もっ)て挙(あ)げ、賞罰(しょうばつ)を慎(つつし)み、賢才(けんさい)を進(すす)め、暗愚(あんぐ)を退(しりぞ)け、
過(あやま)ちを聞(き)けばすぐに改(あらた)め、諫(いさ)めを從(したが)うこと流(なが)るるがごとし。

善(ぜん)を為(な)すに疑(うたが)わず、令(れい)を出(い)づるに信(しん)を期(き)す。
神(しん)を頤(やしな)い性(せい)を養(やしな)い、畋(かり)を省(しょう)し、奢(おご)りを去(さ)りて儉(けん)に從(したが)い、
工役(こうえき)の費(ひ)を減(へ)らす。

方隅(ほうぐう)を静(しず)めんことを務(つと)め、土(つち)を闢(ひら)くを求(もと)めず。
弓矢(きゅうし)を櫜(おさ)めて武備(ぶび)を忘(わす)れず。

凡(すべ)てこの数(すう)の者(もの)は、国(くに)を治(おさ)むるの常(つね)の道(みち)にして、陛下(へいか)は之(これ)を常(つね)に行(おこな)う。
臣(しん)の愚昧(ぐまい)、惟(おも)うに願(ねが)わくは陛下(へいか)、思(おも)いて怠(おこた)らず、

則(すなわ)ち至徳(しとく)の美(び)三皇五帝(さんこうごてい)に比(くら)ぶべく、億載(おくさい)の祚(そ)天地(てんち)と長久(ちょうきゅう)ならん。

たとえ桑穀(そうこく)妖(よう)を為(な)し、龍蛇(りゅうだ)孽(わざわ)いを作(な)し、雉(きじ)が鼎耳(ていじ)に鳴(な)き、石(いし)が晋地(しんち)に言(い)うとも、
禍(わざわい)を転(てん)じて福(ふく)と為(な)し、災(さい)を変(か)えて祥(しょう)と為(な)すべし。

況(いわ)んや雨水(うすい)の患(うれ)いは、陰陽(いんよう)の常理(じょうり)、豈(あ)に天譴(てんけん)と謂(い)いて心(こころ)を繋(つな)ぐべけんや。
臣(しん)聞(き)く、古人(こじん)の言(こと)に曰(いわ)く、
『農夫(のうふ)労(ろう)して君子(くんし)これを養(やしな)い、愚者(ぐしゃ)言(い)いて智者(ちしゃ)これを擇(えら)ぶ』と。
輒(すみや)かに狂瞽(きょうこ)を陳(の)べ、伏(ふ)して斧鉞(ふえつ)を待(ま)つ」

太宗(たいそう)深(ふか)くその言(げん)を嘉(よみ)す。


注釈

  • 穀水:洛陽付近を流れる川の一つ。洪水の原因となった。
  • 矜物罪己:他人(民)の不幸を憐れみ、自らの過失とする態度。
  • 含養:慈しみ育てること。
  • 聊生:かろうじて命をつなぐ暮らし。
  • 桑穀・鼎耳・石言:すべて不吉な妖異・災異の象徴。
  • 斧鉞:処罰。上奏の際に「命をかけて申します」という意味の定型句。

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