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才能はある、しかし完成にはまだ至らず

弟子の成長を段階的に見極め、導く師の眼差し

あるとき、孔子は弟子の子路(しろ)の楽器の演奏についてこう評した。
「由(ゆう:子路)の瑟(しつ)の演奏には、まだその剛強な性格がそのまま表れていて、私の門で奏でるにはふさわしいところまで届いていないな」

この言葉を聞いた門人たちは、まるで子路の評価が下がったかのように思い、彼への敬意を失いかけた。

それを見た孔子は、すぐさまこう訂正する。

「子路は、すでに“堂”(正面の広間)まではたどり着いている。
だが、“室”(奥の間)――つまり、深い理解と完成の境地にはまだ入っていないだけだ。
多くの門人たちは、そもそもまだ“堂”にすら達していないのだよ」

孔子は、単に出来・不出来で弟子を裁くのではなく、今どこにいて、どこを目指しているのかという“学びの位置”を的確に見ていた。

未完成であっても、確かな歩みがある者は高く評価する。
そして、奥に至る者は、まず堂に登ることから始まる――これが孔子の教えの階段である。


引用(ふりがな付き)

子(し)曰(い)わく、由(ゆう)の瑟(しつ)、奚為(なんす)れど丘(きゅう)の門(もん)に於(お)いてせん。
門人(もんじん)、子路(しろ)を敬(けい)せず。
子(し)曰(い)わく、由(ゆう)や、堂(どう)に升(のぼ)れり。未(いま)だ室(しつ)に入(い)らざるのみ。


注釈

  • 瑟(しつ):古代中国の撥弦楽器。琴よりも大型で25弦を有する。楽器の技量は人格の反映とされていた。
  • 堂(どう):家の正面にある接客用の広間。ここでは「初歩的理解の段階」を象徴。
  • 室(しつ):家の奥にある部屋。転じて「真の理解・完成の境地」を象徴。
  • 奚為(なんす)れど~:~するにはふさわしくない、何のためにという意味。孔子の疑念表現。

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