— 封建制の名残が残る時代に、中央集権の意義を改めて問う
背景と主旨
第八章では、唐代における「封建制(ふうけんせい)」の名目的存在と、それに付随する制度的・歴史的議論が取り上げられている。
太宗の時代、実際には中央集権的な「州県制」が基本であったが、功臣や皇族に与えられる称号(封爵)として封建的な名残が残っていた。
この章では、封爵の性格、食実封の実態、さらに太宗による封建制導入の試みと、それに反対した臣下たちの動向を整理している。
用語と制度解説(ふりがな付き)
- 封建(ふうけん):地方分権型の政治体制。古代中国・周代の制度に典型が見られる。
- 州県制(しゅうけんせい):中央集権型の政治制度。唐では全国を州→県に分割して、中央から派遣された刺史・令が統治。
- 封爵(ほうしゃく):唐代における名目的称号。王・公・侯・伯・子・男の九等級があり、地名とともに授けられる(例:楚王、鄭国公)。
- 食実封(しょくじつほう):封爵に付随する収入権。爵位に応じて一定戸数の租税収入を得るが、実数は少なかった。
歴史的経緯と太宗の試み
太宗は二度にわたって実質的封建制の導入を検討した。
- 一度目(貞観二年・628年)
皇族・功臣を地方に分封し、実際の地方統治を担わせようとした。
→ 李百薬・顔師古・魏徴・馬周らが強く反対し、断念。 - 二度目(貞観十一年・637年)
刺史職(州長官)を世襲制にしようとする。
→ 長孫無忌・于志寧らが反対し、再び断念。
これらの記録の年代には『旧唐書』『資治通鑑』などで混乱があり、一部の上奏文が誤って別の年に置かれた可能性がある。
太宗の「猜疑心」と制度構想
隋末の混乱や「玄武門の変」における兄弟殺害などを経て実権を握った太宗には、深い猜疑心があったと考えられる。
彼が封建制を繰り返し構想した背景には、信頼できる血縁・功臣に地方を任せて治安を保ちたいという切実な動機があったと推察される。
豊富な典拠と引用史料
解説文では、以下のような古典や史料が参照・引用されている:
- 『旧唐書』李百薬伝・馬周伝
- 『資治通鑑』貞観条
- 『史記』『漢書』『春秋左氏伝』『文選』『法言』『呂氏春秋』等
- 各種封建制度や賢臣・逸話を示す実在人物例(蕭何、劉賈、鄧攸、羊続など)
『貞観政要』巻一「貞観元年 賞罰と封爵における公平主義」
1. 原文
貞觀元年、封中書令房玄齡爲邗國公、兵部尚書杜如晦爲蔡國公、吏部尚書長孫無忌爲齊國公、並爲第一等、食邑實封一千三百戶。
皇從父淮安王神通上言、「義旗初起、臣率兵先至。今玄齡等刀筆之人、功居第一、臣竊不服」。
太宗曰、「國家大事、惟賞與罰。賞當其勞、無功者自退。罰當其罪、爲惡者咸懼。則知賞罰不可輕行也。
今計勳行賞、玄齡等有籌謀帷幄、畫定社稷之功、可比漢之蕭何。雖無汗馬之勞、然其指蹤推轂之力不可沒。叔父於國至親、朕無所愛惜。但以不可緣私濫與勳臣同賞矣」。
由是諸功臣自相謂曰、「陛下以至公、賞不私其親。吾屬何可訴」。
初、高祖舉宗正官、弟姪・再從・三從孩童已上封王者數十人。
至是、太宗謂羣臣曰、「自兩漢已降、惟封子及兄弟。其疏遠者、非有大功者不得封。若一切封王、多給力役、乃至勞苦萬姓、以養己之親屬」。
於是宗室先封郡王其間無功者、皆降爲縣公。
2. 書き下し文
貞観元年、中書令の房玄齡を邗国公に、兵部尚書の杜如晦を蔡国公に、吏部尚書の長孫無忌を斉国公に封じ、いずれも第一等とし、食邑実封一千三百戸を与えた。
皇族である従父・淮安王神通が上奏して言った、「義旗を挙げた初め、私が兵を率いて先に駆けつけました。今や房玄齡ら刀筆の士が第一の功として封じられること、私としては納得がいきません」。
太宗は言った、「国家の大事は賞罰にあり。賞は労に応じ、無功の者は自ら退く。罰は罪に応じ、悪を為す者は皆恐れる。ゆえに賞罰は軽々しく行ってはならぬ。
今、功績を計って賞を行うに、房玄齡らは帷幄に謀をめぐらし、国家の大計を定めた功があり、漢の蕭何に比すべきである。馬に乗って戦わずとも、戦略を定め、車を推進した功績は決して軽くはない。叔父殿は国家に近親であれど、私情で勲臣と同じ待遇を与えるわけにはいかない」。
この言を聞いて、他の功臣たちは互いに言った、「陛下は至公をもって親族にも特別扱いせず、我々は何を訴えられようか」。
当初、高祖は宗正官を設け、兄弟・従兄弟・その子どもたちまでも数十人に王の爵位を与えていた。
これに対して、太宗は群臣に言った、「漢以降の制度では、王に封ずるのは子や兄弟に限られ、功のない遠縁には爵を与えないのが原則である。一律に王に封じれば、多くの労役が必要となり、人民の負担を増やす。これは国家のためにならない」。
よって、以前に郡王として封ぜられていた宗室のうち功のない者は、すべて県公に降格された。
3. 現代語訳(逐語・一文ずつ)
- 貞観元年、太宗は房玄齡を邗国公、杜如晦を蔡国公、長孫無忌を斉国公に封じ、最高等級とした。
- 食邑として1300戸が与えられた。
- 皇族である淮安王神通は、「自分は義旗を最初に掲げて兵を率いて到着した。それなのに、文官である房玄齡らが第一の功績者として封じられるのは納得できない」と述べた。
- これに対し太宗は、「国家の基本は賞罰である。功績のある者を賞し、罪のある者を罰する。これが公平でなければ政治は乱れる」と語った。
- 「房玄齡らは戦には出なかったが、戦略を立て、国家の方向性を決めた功績は大きい。漢の蕭何と同じく、軍に出ずとも国を支えた重臣である」
- 「親族だからといって、功のない者に特別な待遇を与えるわけにはいかない」
- これを聞いた功臣たちは、「陛下は本当に公平である。我々が不満を訴える余地はない」と感嘆した。
- 太宗はまた、漢以降の原則に基づき、「子や兄弟以外に、功のない者を王に封じるのは間違いだ」と述べた。
- よって、すでに郡王として封じられていた宗室のうち、功績のない者はすべて県公へ降格された。
4. 用語解説
- 封(ほう):爵位を与えること。
- 国公/郡王/県公:爵位の等級。国公・郡王は上位、県公はその下。
- 食邑(しょくゆう):封じられた土地から収入を得ることができる特権。
- 帷幄(いあく):軍事や政務を行う幕営、転じて戦略や作戦立案を意味する。
- 蕭何(しょうか):漢の高祖・劉邦を補佐した名宰相。戦には出なかったが、内政を支えた。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
太宗は貞観元年に、功績に応じて三人の重臣を国公に封じ、高い爵位と多くの俸禄を与えた。
これに不満を抱いた皇族の神通は「自分の方が先に戦った」と主張したが、太宗は「戦場での功だけが功績ではない」と毅然と述べた。
彼は「国家の要は賞罰にある。公平を欠いてはならない」と語り、親族といえども特別扱いはしなかった。
その姿勢により、臣下たちは太宗の至公無私に感嘆した。
さらに太宗は「不要な王位の乱発は民の負担を増す」として、無功の宗族を降格した。
6. 解釈と現代的意義
この逸話は、「賞罰の公正」こそが国家を支える基盤であるという太宗の政治哲学を明確に示しています。
特に以下の点が現代にも通じます:
- 功績は「目に見える結果」だけでなく、「背景で支えた者」にもある。
- 親族・身内への優遇を排除し、公私の区別を明確にすることで組織の信頼が高まる。
- 組織における「役職の氾濫(封王の乱発)」は、リソースの分散と管理コストの増加につながる。
7. ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)
A. 裏方の功績を正当に評価せよ
- 戦場に立つ者だけがヒーローではない。作戦を立案し、組織を支えた者こそ評価されるべき。
- 例:営業だけでなく、経理・物流・カスタマーサポート等、目立たない部門の貢献も正当に認識する必要がある。
B. 血縁・私情を排した人事こそ信頼の礎
- 「身内だから昇進」ではなく、「成果・信頼・適性」に基づく人事が、チーム全体の士気と信頼を高める。
C. 過剰な役職・権限は組織を疲弊させる
- 無条件で称号や権限を与えると、それを支えるために余分なリソース(力役・人員)が必要になり、効率が下がる。
8. ビジネス用の心得タイトル
「賞は公平に、功は見えざる所に──公私を分けるが信を得る道」
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