真の憂いは、自分がまだ聖人の道に至っていないということ
孟子は言う。君子(くんし=人格者)は、
**人生を通じて「何かを成せていないこと」への自省・問題意識(憂い)**を持っているが、
一方で、突発的な災難や不運(患い)には動じない。
それはなぜか。君子の心は常に仁と礼に根ざして行動しており、やましいことが何一つないからである。
君子の「憂い」とは何か?
それは、こんなふうに自分を見つめることだ:
「舜(しゅん)も人であり、私も人である。
舜は天下の模範となり、その行いは後世にまで伝えられている。
にもかかわらず、私はいまだに田舎に埋もれた一介の凡人にすぎない。
これでいいのか――これこそが、私の“憂い”である」。
このようにして高い理想を持ち、それに至らぬ自分を省みることこそが、君子の抱くべき“終身の憂い”なのである。
では、この憂いをどうすべきか?
孟子の答えは、極めて明快で実践的だ:
「舜のように行うだけである。それ以外に方法はない」。
つまり、憂いている暇があるなら、
理想の人物に倣って日々を生きよ。それが唯一の解決である、というのである。
外からの「一朝の患い」は、なぜ気にしなくてよいのか?
君子は――
- 仁(じん)=人を思いやる心なくして、行動することはない
- 礼(れい)=秩序と敬意を欠く行動はしない
だからこそ、たとえ突発的な苦難が降りかかっても、
自分の行動にやましさがなければ、恐れることは何もない。
君子にとって真の患いとは、**「理想に至れぬまま一生を終えること」**であり、
それ以外の不運や外的困難は、心に影響を与えるものではない。
原文(ふりがな付き)
是(これ)の故(ゆえ)に君子(くんし)には終身(しゅうしん)の憂(うれ)い有(あ)るも、
一朝(いっちょう)の患(うれ)い無(な)きなり。
舜(しゅん)も人(ひと)なり。我(われ)も亦(また)人なり。
舜は天下(てんか)に法(のり)を為(な)し、後世(こうせい)に伝(つた)うべくす。
我は由(なお)未(いま)だ郷人(きょうじん)たるを免(まぬが)れざるなり。
是(こ)れ則(すなわ)ち憂(うれ)うべきなり。之(これ)を憂(うれ)えば如何(いか)にせん。
舜のごとくせんのみ。
心得の要点
- 君子は一生かけて「自己実現の未達」に向き合い続ける。
- 突発的な不運や理不尽に悩まないのは、自らの仁と礼が確かであるから。
- 真の不安とは、「聖人の道を歩む努力を怠ること」こそ。
- 高き理想に至れぬ己を悔い、そして舜のように生きることを志す――それが憂いの克服法。
パーマリンク案(スラッグ)
- noble-worry-not-sudden-fear(君子の憂いは内にあり、外にあらず)
- live-like-shun(舜のように生きよ)
- only-fear-not-reaching-virtue(ただ徳に至らぬことを恐れよ)
この章は、自己修養・生き方・人間の不安との向き合い方において、きわめて現代的な含意を持つ章です。
孟子が言う「憂い」は、自分に対する真摯な問いであり、「患い」を超える強さとは、自らの行動に確信があることによって成り立つ――その哲学は、今日の私たちにも深い示唆を与えてくれます。
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