宣王は、孟子の助言を受けて率直にこう語ります。
「私は愚かで、仁政の道をすぐに実践できるとは思わない。
だが、志はある。どうかその志を助け、明確に教えてほしい。
愚か者ではあるが、何とか一つ試してみたいのだ」
この謙虚な姿勢に対して、孟子は本質的かつ現実的な回答を与えます。
「恒産」なければ「恒心」なし
孟子は断言します。
「安定した生業・収入(恒産)がなければ、
人は安定した心(恒心)を保つことができません」
さらに続けて、こう説きます。
- 恒産があるのに恒心を保てる者は、**士(=学問修養のある特別な人)**に限られる。
- 一般の民は恒産を失えば、やがて恒心も失い、
投げやり・かたより・よこしま・勝手放題となる。 - その結果、罪を犯し、罰を受けることになる。
これを孟子は「民を網に追い込む(罔する)ようなもの」とし、
仁ある君主が、そんな政治を行うべきではないと断じます。
引用(ふりがな付き)
「王(おう)曰(い)わく、吾(わ)れ惛(こん)くして是(こ)れに進(すす)むこと能(あた)わず。
願(ねが)わくは夫子(ふうし)吾が志(こころざし)を輔(たす)け、明(あき)らかに以(もっ)て我(わ)が教(おし)えと為(な)せよ。
我、不敏(ふびん)なりと雖(いえど)も、請(こ)う、之(これ)を嘗試(しょうし)せん。曰(い)く、恒産(こうさん)無(な)くして恒心(こうしん)有(あ)る者は、惟(た)だ士(し)のみ能(よ)くすることを為(な)す。
民(たみ)の若(ごと)きは、則(すなわ)ち恒産無ければ、因(よ)って恒心無し。苟(いやし)くも恒心無ければ、放辟(ほうへき)邪侈(じゃし)、為(な)さざる無(な)きのみ。
罪(つみ)に陥(お)ちて、然(しか)る後(のち)、従(したが)って之を刑(けい)す。
是(こ)れ、民を罔(あみ)するなり。
焉(いず)くんぞ仁人(じんじん)位(くらい)に在(あ)りて、民を罔することを為(な)すべけんや」
注釈
- 恒産(こうさん)…安定した収入や職業、生活手段。農地、商売など。
- 恒心(こうしん)…安定した心、ぶれない道徳心、志。
- 士(し)…学問や修養を積んだ知識人・有徳者。
- 放辟邪侈(ほうへきじゃし)…投げやり、かたより、よこしま、勝手放題。
- 罔(もう)する…網の中に入れる、罠にかける。ここでは「罪に追い込む政治」の比喩。
パーマリンク案(英語スラッグ)
no-stability-no-integrity
(安定なければ誠実もなし)livelihood-before-morality
(道徳の前に生計を)don’t-entrap-the-people
(民を網に追い込むな)
補足:恒産なき民に恒心を求めるのは酷である
孟子のこの章は、現代の福祉・雇用・教育政策においても極めて示唆的です。
人の道徳や倫理を守らせたいのなら、まず生活を支えることから始めよというメッセージは、
「努力不足」や「自己責任」に偏りがちな現代社会への警鐘にもなります。
同時に、孟子は**「士」としての志を持つ者には例外的な責任と自律が求められる**とも述べており、
その両者の線引きが社会全体の健全性を形作るという思想が垣間見えます。
1. 原文
王曰:「吾惛,不能進於是矣。願夫子輔吾志,明以教我。我雖不敏,請嘗試之。」
曰:「無恆產而有恆心者,惟士為能。若民則無恆產,因無恆心。
苟無恆心,放辟邪侈,無不為已。及陷於罪,然後從而刑之,是罔民也。
焉有仁人在位,罔民而可為也!」
2. 書き下し文
王曰く、「吾れ惛(くら)くして是に進むこと能わず。願わくは夫子、吾が志を輔け、明らかに以て我を教えよ。
我、不敏なりと雖も、請う、之を嘗(こころ)み試さん。」
孟子曰く、「恒産無くして恒心有る者は、惟だ士のみ能くする所なり。
民の若きは、恒産無ければ、因って恒心無し。
苟(いやしく)も恒心無ければ、放辟邪侈(ほうへきじゃし)、為さざる無し。
罪に陥るに及んで、然る後、従ってこれを刑す。是れ民を罔(あなど)るなり。
焉んぞ仁人位に在りて、民を罔ることを為すべけんや!」
3. 現代語訳(逐語・一文ずつ訳)
- 王が言った:「私は愚かで、道を進む自信がない。
先生、どうか私の志を助け、道理を明らかにして教えてほしい。
私は鈍いが、なんとか実行してみたいと思っている。」 - 孟子は答えた:「安定した生計(恒産)がないのに、
安定した道徳心(恒心)を持つことができる者は、
学問を修めた士だけである。 - 一般の民衆は、生計が不安定であれば、
自然と道徳心も不安定になる。」 - 「もし恒心がなければ、人はわがままになり、
法を破り、贅沢に走り、やってはならないことを平気でするようになる。 - やがて罪を犯してから、その罪に対して刑罰を与える──
これはまさに民をだます政治である。」 - 「どうして仁者(徳ある政治家)が、
そんな民を欺くような政治を行ってよいだろうか!」
4. 用語解説
- 惛(こん):愚か、知恵が及ばないさま。
- 恒産(こうさん):安定した収入・生業。生活の基盤。
- 恒心(こうしん):安定した倫理観・節操。
- 放辟邪侈(ほうへきじゃし):わがまま、道に外れた行為、贅沢・奔放な振る舞い。
- 罔民(もうみん):民を欺く・陥れる政治のこと。誤った支配。
- 仁人(じんじん):仁のある政治家。徳をもって人に接する統治者。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
梁の恵王は、自分には正しい政治を行う力がないと謙遜し、孟子に教えを乞います。
それに対し孟子は、「人に道徳を求めるには、まず生計の安定が必要である」と説きます。
士(知識人)ならば、生活が苦しくても心を保つことができるが、
民衆は違う。収入が不安定であれば、心も安定せず、悪に流れてしまう。
そのような状況を作っておきながら、罪を犯したときだけ罰を与えるのは、
欺瞞的で不公平な統治である。
仁をもって治めるべき王が、
そんな支配をしてはならない──と孟子は強く戒めます。
6. 解釈と現代的意義
孟子はこの章句で、**「倫理の前提は生活の安定である」**という社会福祉の原理を明言しました。
道徳や規律を説く前に、まず「安心して暮らせる仕組み」がなければならない。
これは現代においても、教育・福祉・雇用の基礎理論として極めて重要です。
特に「自己責任」や「罰則」ばかりが強調される社会では、
この孟子の言葉が根本からの政策転換を促すものとなります。
7. ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)
- 「社員の非行や低パフォーマンスを叱る前に、安定した働き方を整備せよ」
成果主義や懲罰制度に偏ると、人は安心して行動できない。
安定収入・明確な評価制度・相談窓口など、基盤整備こそ信頼と規律を育てる鍵。 - 「顧客の行動は、環境によって変わる」
不正・過剰クレーム・不払いの背後には、不安定な生活・制度の欠陥があることも。
「問題顧客」の責任追及だけではなく、構造への対応策が必要。 - 「社会課題へのアプローチは“罰”より“支え”」
脱税や犯罪に対して、単に処罰強化するのではなく、
生活基盤や教育の支援で恒産を整える政策が、結果として社会秩序を強化する。
8. ビジネス用の心得タイトル:
「倫理を望むなら、まず安定を与えよ──恒産なき者に恒心なし」
孟子のこの教えは、
「すべての善き制度は、人の生活を守ることから始まる」
という原理を端的に表しています。
現代の企業経営・教育制度・行政政策にも深く応用できる、不朽の名言です。
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