孔子が残した短くも深い言葉——
「鳳(ほう)も現れず、河(か)も図(と)を出さない。私はもう——終わったかもしれない」。
この言葉には、理想を信じ続けてきた者の切実な嘆きと、それでも己の道を見失わない覚悟がにじんでいる。
古来より、「鳳鳥(ほうおう)」や「龍馬(りゅうめ)が背負う図(と)」は、**聖なる王や賢者が世に出るときに現れる瑞兆(ずいちょう)**とされた。
それが一向に現れないということは、孔子のような人物を活かすべき明君が、この世にはいないという失望の表現でもある。
だが、孔子はただ世を呪ったのではない。
この言葉の裏には、「たとえ理想がかなわずとも、自分の志だけは曲げない」という、揺るぎない内なる決意がある。
理想に届かない現実を嘆きながらも、自分の使命を放棄しない。だからこそ偉大であり続けたのだ。
原文(ふりがな付き)
「子(し)曰(いわ)く、鳳鳥(ほうちょう)至(いた)らず、河(か)、図(と)を出(い)ださず。吾(われ)已(や)んぬるかな。」
注釈
- 鳳鳥(ほうちょう)…聖王の出現を告げる瑞鳥。理想的な統治者が現れるときに舞うとされた。
- 河(か)の図(と)…八卦の原型。伝説では黄河から現れた龍馬が背負っていたとされ、これも聖人登場の前兆とされた。
- 吾已んぬるかな(われやんぬるかな)…「私はもう終わったかもしれない」という意味だが、あきらめではなく、現実に対する諦観と使命への自覚がにじむ表現。
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