弟子の公孫丑が孟子に問うた。伊尹は、「自分の君に道に外れたことをさせたくない」と言い、暴君となった太甲を一時的に桐へ追放した。民はこれを喜び、のちに太甲が反省して賢明になったため、再び都に迎え入れた時も、民は喜んだ。このように、賢者が君の臣下として仕えるとき、君が賢くなければ容赦なく追放してもよいのかと問うた。
孟子は、それは伊尹のように、天下と民を第一に考え、まったく私心を持たない正しい志がある場合にのみ許されることであり、そうした志がなければ、それは単なる「簒奪(さんだつ)」――君の地位を奪う行為に過ぎないと答えた。
「孟子曰(もうし)く、伊尹の志有らば、則ち可なり。伊尹の志無くば、則ち簒うなり」
「伊尹のように天下を思い、私心なく正義に従う志があるならば、それは許される。しかし、そのような志がなければ、たとえ結果が同じでも、それは単なる権力の簒奪に過ぎない」
孟子は、正義の行為と簒奪的な行為は、見た目には似ていても、その心の在り方によって全く異なると教えている。補佐役の者こそ、徹底して私心を排し、公のために行動することが求められる。
※注:
「狎れしめず」…君を不道に慣れさせない、という意味。
「太甲」…殷王朝初期の王。暴政ののち、伊尹の指導で賢君に立ち直ったとされる。
「簒(う)」…簒奪。正統ではない形で地位を奪うこと。
『孟子』公孫丑章句上より
1. 原文
公孫丑曰、伊尹曰、予不狎于不順、放太甲于桐、民大悅、太甲賢、又反之、民大悅。
賢者之爲人臣也、其君不賢、則固可放與。
孟子曰、伊尹之志則可、無伊尹之志則簒也。
2. 書き下し文
公孫丑(こうそんちゅう)曰く、伊尹(いいん)は曰く、「予、不順に狎(な)れしめず」と。太甲(たいこう)を桐(とう)に放(はな)ちて、民大いに悦(よろこ)べり。太甲、賢となる。又(また)これを反(かえ)して、民大いに悦べり。
賢者の人臣たるや、その君賢ならざれば、則(すなわ)ち固(まこと)に放すべきか。
孟子曰く、伊尹の志(こころざし)有れば、則ち可なり。伊尹の志無くば、則ち簒(せん)なり。
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 「伊尹は『私は不順なる者には親しまず』と言った。」
→ 伊尹は「正義に反する者にはおもねらない」と公言していた。 - 「太甲を桐の地に追放したとき、民衆は大いに喜んだ。」
→ 不徳な太甲が放逐されたことで、人民は安心し、歓迎した。 - 「その後、太甲が賢くなったので、再び都に戻したときも、民は喜んだ。」
→ 改心した太甲が復位した際にも、民は再び満足した。 - 「賢者が人臣(家臣)となる場合、君主が不賢であれば、当然放逐してよいのか?」
→ 優れた臣下は、無能な君主を排除することも許されるのか? - 「孟子は言った:伊尹の志があれば、それはよい。しかし、その志がなければ、それは簒奪である。」
→ もし動機が「天下のため」なら許されるが、「私利私欲」のためであれば、それは正当な行為ではなく、簒奪行為だ。
4. 用語解説
- 伊尹(いいん):殷(商)の初代王・湯王に仕えた賢臣。太甲を放逐し、その後復位させた伝説的政治家。
- 太甲(たいこう):殷の第2代王。湯王の孫。初めは不徳だったが、後に改心したとされる。
- 狎(な)れる:馴れ親しむ、なあなあの関係になる。
- 放(はな)つ:追放する、地位を解く。
- 反す(かえす):復位させる、戻す。
- 簒(せん):簒奪。正統でない者が権力を奪うこと。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
公孫丑が問うた:
伊尹は「私は不徳な王に馴れ合わない」と言い、太甲を桐に追放したところ、民はこれを喜んだ。
やがて太甲が賢くなって復位させると、民はそれにも喜んだ。
このように、賢者である臣下が、もし君主が愚かならば追放してもよいのか?
孟子は答えた:
もしその行動が、伊尹のように「天下を思う志」に基づいているなら、それは許される。
しかし、もしそうした志がないならば、それは正義ではなく、簒奪(非合法な権力の奪取)にすぎない。
6. 解釈と現代的意義
この章句の核心は、行為そのものよりも“志(動機)”の正しさを重視する孟子の倫理観にあります。
- 結果よりも、動機が問われる
→ 同じ「上司の排除」「体制の是正」であっても、それが「公のため」なのか「私のため」なのかで正当性が大きく分かれる。 - “権力の行使”には厳しい内省が必要
→ 部下が上司に意見する、改革を起こすといった行為も、それが自己利益ではなく、公正な目的によるものでなければならない。 - 真のリーダーシップとは、正しい志に根ざした行動
→ 伊尹は民意と国家の安定を第一とした。一方、志なき権力掌握は、たとえ正しい結果を生んでも「簒奪」とされる。
7. ビジネスにおける解釈と適用
✅ 「改革は“私心なき志”によってこそ正当化される」
リストラや経営改革、人事判断など、権限の行使が正当と評価されるには、その根底に“組織のため”“顧客のため”という動機がなければならない。
✅ 「部下の“正しい進言”は、志と行動の一致から」
上司やリーダーに物申すことは必要な場合もあるが、その発言や行動が“正義”なのか“野心”なのかは、周囲に敏感に見抜かれる。
✅ 「“志のなき善行”は、評価されない」
結果が良かったとしても、動機が不純であれば信頼は得られない。逆に、志ある行動は、たとえ一時的に誤解されても、長期的に支持を集める。
8. ビジネス用の心得タイトル
「その改革、志はあるか──“善なる動機”が行動を正当化する」
この章句は、現代の組織論やリーダー論にも通じる「行動の正しさは志に宿る」という孟子の鋭い倫理観を端的に示すものです。
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