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独りの楽しみには、本当の喜びはない

孟子は、古典『書経』湯誓篇を引用しながら、孤独な支配と真の喜びの欠如を鋭く指摘する。

かつて悪王・桀(けつ)は、自らを太陽になぞらえて「自分が滅びるときは、この天下も共に滅びる」と豪語した。それに対して民衆はこう言った。

「この太陽(桀王)は、いつになったら滅びるのか。私たちも一緒に滅んでも構わないから、早く滅んでほしい」と。

そんな怨嗟の中で、いかに立派な台や庭園を築き、美しい鳥獣を集めようと、王がそれを“独り占め”して楽しむことに、いったいどんな価値があるのか――孟子はこう問いかける。

この言葉は、個人の楽しみを追うことのむなしさ、そして「共に楽しむことの必要性」を強く伝えている。


引用(ふりがな付き)

「湯誓(とうせい)に曰(い)く、時(とき)の日(ひ)害(そこ)なわるか喪(ほろ)びん。予(われ)女(なんじ)と皆(とも)に亡(ほろ)びん、と。民(たみ)之(これ)と皆に亡びんと欲(ほっ)すれば、台(たい)・池(ち)・鳥獣(ちょうじゅう)有(あ)りと雖(いえど)も、豈(あ)に能(よ)く独(ひと)り楽(たの)しまんや。」


注釈

  • 湯誓(とうせい)…『書経』の一篇。商の湯王が夏の桀王を誅した際の言葉が記されている。
  • 時の日…太陽の喩え。桀王自身を指す。
  • 独り楽しむ…他者と喜びを分かち合えない孤独な状態。真の意味での「楽しみ」は成立しない。

パーマリンク案(英語スラッグ)

  • no-joy-alone(独りの喜びは喜びにあらず)
  • shared-joy-is-true-joy(分かち合う喜びこそ本物)
  • tyrant-can’t-enjoy(暴君に楽しみなし)

補足:人生の喜びとは何か――孟子の“共感”哲学

孟子がここで描き出すのは、「楽しみとは共にあることで成り立つ」という、人間関係の本質である。

桀王は自らの力に酔いしれて自然を独占したが、民の心を失った彼は、結果として何も楽しめなくなった。これに対し、文王は民と共に楽しんだからこそ、その自然の豊かさも、生きた喜びとなった。

吉田松陰はこの一節を獄中で読み、「独楽」ではなく「偕楽(ともに楽しむこと)」こそが人としての在り方だと説いた。彼が仲間とともに『孟子』を学んだその姿は、まさにこの教えの実践である。

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