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行動の美しさだけでは、仁者とは言えない

仁とは、知に裏打ちされた徳の完成である

弟子の子張は、二人の高名な人物について孔子にたずねた。

① 楚の令尹・子文について

子文は三たび宰相に登用され、三たび解任されたが、一度も喜怒の感情を表に出さず、政務の引き継ぎもしっかり行っていたという。
これを聞いた孔子は、「忠実で立派だ」と認めつつも、「仁者か」と問われると、「まだ知者とも言えないのに、どうして仁者と言えるだろうか」と慎重に否定した。

② 陳文子について

斉の大夫・崔子が君主を弑した事件の際、陳文子は地位と財産を捨てて国を去り、他国でも類似の不義を見ては去るという潔さを示した。
孔子はこの姿を「清い」と評価したが、再び「仁者か」と問われると、「知者に至っていない者を仁者とは呼べない」と同じように答えた。

ここで孔子が語っているのは、行動がどれだけ忠義や清廉さを示していたとしても、それが深い思慮と知恵(=知)に根ざしていなければ、真の“仁”とは言えないという考えである。
つまり「仁」はただの感情的善行や高潔さではなく、理性・判断・洞察を備えた人格的完成を意味する。


原文とふりがな付き引用(一部)

子張(しちょう)、問(と)うて曰(いわ)く、令尹子文(れいいんしぶん)は、三たび仕(つか)えて令尹と為(な)れども、喜色(きしょく)無し。三たび之(これ)を已(や)めらるるとも、慍(いか)るる色無し。旧(きゅう)令尹の政(まつりごと)は、必(かなら)ず以(もっ)て新(しん)令尹に告(つ)ぐ。如何(いかん)ぞや。
子(し)曰(いわ)く、忠(ちゅう)なり。曰く、仁(じん)なるか。曰く、未(いま)だ知(ち)らず。焉(いず)んぞ仁なるを得(え)ん。

仁者を名乗るには、
清さや忠誠だけでなく、それを支える知恵が必要である。


注釈

  • 仁(じん)…孔子思想における中心的徳目。思いやり・誠実さ・人間愛とともに、知的な判断と道理への理解を含む。
  • 知(ち)…状況を見抜き、道理に基づいて善を行うための判断力・理性。
  • 子文(しぶん)…楚の国の宰相。忠実で冷静な官僚として知られるが、孔子は「知」における深みの不足を指摘。
  • 陳文子(ちんぶんし)…正義感と清廉さで行動するが、状況を変える手段を持たず、孔子は「仁」までには至らないと評価。

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