昭和48年の初め、A社の社長から連絡が入った。「T社が不渡り寸前まで追い込まれている。何とか仲間を集めて支援したい。資金は私たちが負担するから、経営面を一倉さんに任せたい」との依頼だ。事態は一大事だ。A社長や他の同志とともに、急ぎT社へ向かった。
最優先すべきは資金繰りだ。まず一年間の資金計画を精査し、不足分を洗い出し、その補填策を具体的に決めた。A社長をはじめ、友人の経営者たちがそれぞれの力に応じて分担する形で協力することが取り決められた。
友人という存在がこれほどありがたいものだと、改めて実感させられた。T社長の人柄がこうした助けを呼び込んだことも、確かに大きな要因だろう。日頃の行いがいかに重要か、深く考えさせられる出来事だった。
資金繰りの見通しが立った後は、事業構造の再構築が必要となる。T社がここまで追い込まれた要因は、「不用意な技術開発」にあったと言える。
高度成長期において、新商品や新技術が果たした役割の大きさは言うまでもない。その影響で、新商品や新技術を会社の成長や発展の「決め手」として喧伝する刊行物やセミナーが世の中にあふれ返った。
しかし、それらで取り上げられる成功例は、何千、何万という事例の中のたった一つに過ぎないという事実を、誰も指摘しなかった。さらに、開発された商品が「どのように売られたのか」については、ほとんど言及されていないのが実情だった。
こうした主張は、どの会社でも新技術や新商品を開発でき、開発さえすれば自然と売れて利益が上がるという、あまりに安易な幻想を広める結果となった。
私のもとに次々と持ち込まれる新商品に関する相談の中で、「どうやって売るのか」を真剣に考えている会社は、ほとんど見かけない。そんな会社は、まさに例外中の例外だ。
そして、その状況は今も変わっていない。「自社で開発した商品は必ず売れる」という、一種の「天動説」が根深く残っているのだ。この天動説のしぶとさには、改めて驚かされる。
T社もこの例外ではなかった。過去2年以上にわたり、約2億円もの研究費が投入されていた。もちろん、その全額が借入金だ。この金額は、T社の規模からすれば明らかに異常な水準だ。しかし、その巨額の投資は目立った成果をもたらすことなく終わっていた。こうした状況になると、昭和46年から47年にかけての金融超緩和時代が、かえって恨めしく思えてくる。
もし金融が超緩和状態でなければ、こんな大金を借りることなど到底できなかったはずだ。しかし、その借入れによる「ツケ」が一気に押し寄せ、T社は窮地に追い込まれることになった。
2年以上の歳月と、身分不相応な2億円もの資金を投入してようやく開発された新技術も、それを応用して売り出す商品の研究は極めて場当たり的だった。さらに、「販売」という概念そのものに対する理解もほとんどなく、ましてやその研究など全く行われていなかったと言っていい。
その応用商品として主に開発されたのは二つあった。その一つが「一個八十銭」の雑貨部品だった。この商品は年間数千万個売れる見込みがあったものの、そこから得られる収益では借入金の金利の半分しか賄えない状態だった。
もう一つは、自社商品として開発されたある日用雑貨だった。しかし、販売の知識がないため、まず「値付け」で大きな誤りを犯していた。自社の製造原価にわずかな利益を上乗せしただけの価格設定であり、その掛率はわずか20%という驚くべき低水準だった。
問屋に対して掛率60%で仕切ったとしても、実際には問屋の粗利益率は約70%に達し、仕入れ値の3倍近い価格で流通する状況になっていた。販売について無知であると、このような事態に陥るのだ。新技術や新商品は、ただ開発すればよいというものではないことが、これでお分かりいただけるはずだ。
これら二つの商品からの収益を合算しても、借入金の金利をまかなえるかどうかさえ疑わしい状況だった。しかも、それ以外に目立った売れ筋商品はなく、わずかに取り扱っていた工業用品も、焼け石に水の状態だった。このような状況では、一体何のための開発だったのか、その意義さえ見失ってしまう。しかし、このケースは決して特殊な例ではなく、これに似た事例は世の中に数多く見られる。
T社の窮地は、この新商品の不振だけにとどまらなかった。もう一つ、別の新事業を同時に進めていたことも、深刻な原因となっていた。この事業も資金不足に加え、販売不振が重なり、成果は思わしくない状態に陥っていた。
一つの会社が同時に二つの新事業を進めるというのは、無謀としか言いようがない。特に余力のある会社を除けば、新事業とは通常、一つずつ着実に形にしていくものだ。二兎を追う姿勢では、どちらも成功には至らない。
世の社長たちは新技術の開発には熱心だが、「これをどうやって売るか、どう事業化するか」を真剣に考える者は非常に少ない。どうやら、新技術の開発そのものが新事業の開発だと思い込んでいる節がある。
事業とは、技術を開発しただけで万事解決するような単純なものではない。それどころか、新技術を事業として形にすることは、想像以上に困難であり、並大抵の努力では成し遂げられない。
新技術をどう商品化するか、価格をどのように設定するか、どの販売網を活用し、どのような販売戦略を展開すべきか。さらに、サービス網の整備、クレーム対策、競合他社による模倣や追い上げで生じる値崩れのリスクなど、検討すべき課題は山積している。新技術を事業化するには、これらすべてに対応する準備と戦略が不可欠だ。
それらが何であるかを正確に理解し、慎重かつ大胆に、そして粘り強く根気よく取り組むことで、初めて成果を手にすることができる。事業化は一朝一夕で実現するものではなく、計画性と継続的な努力が求められるのだ。
まだ販売に至っていない段階で甘い期待を抱くべきではない。新技術を事業化することの難しさは想像以上であり、その現実を肝に銘じた上で、慎重かつ真剣に取り組む必要がある。安易な楽観は禁物だ。
新技術開発はゴールではなく、スタートに過ぎない ― 成功への道筋を描くために
新技術の開発に成功することは確かに企業の成長にとって大きな成果です。しかし、技術が完成したからといって事業が成功するわけではありません。A社やT社の事例を参考に、新技術の開発と事業化の難しさ、またそこに求められる戦略的視点について考えてみましょう。
T社の失敗から学ぶ「技術開発の落とし穴」
T社は大きな研究費を投じて新技術を開発しましたが、その後の事業化に失敗してしまいました。開発に2年以上の歳月と多額の借入金を要したにも関わらず、製品化に至ると、販売計画の不備や価格設定の誤りから売上が伸び悩んだのです。このケースは、技術開発を「事業化」と同義に考えてしまったことによる典型的な失敗例といえるでしょう。
技術開発の段階で満足せず、どうやって市場に浸透させるか、その販売戦略を立てることが不可欠です。T社は、新技術の応用製品として二つの主力商品を用意しましたが、これらが事業収益を十分に支えられなかったことが企業存続の危機につながったのです。こうした失敗から、技術開発後の戦略的事業計画の必要性が浮き彫りになります。
新技術の事業化に必要な視点
技術を開発するだけでは事業は完結しません。重要なのは、その技術をいかに市場に届け、収益を得るかです。そのために必要な視点は以下の通りです。
- 商品化戦略の策定: 新技術をどのように商品に落とし込むか、どの市場に展開するのか、価格設定や製品のポジショニングを明確にすることが重要です。
- 販売戦略の設計: 販売網の構築、適切な価格政策、販売チャネルの選定、広告・プロモーションなど、具体的な販売活動に基づく計画が求められます。販売力がなければどれほど優れた技術でも収益には結びつきません。
- サービスとアフターサポート: 商品に対するアフターサービスやクレーム対応の準備が必要です。技術製品はしばしば顧客からの質問やトラブルが発生しやすく、信頼性の高いサービス網が求められます。
- 競争と模倣への対策: 他社が類似技術を追随してくる可能性を見越し、競争の中で優位に立つための差別化戦略や価格調整が必要です。
二兎を追わない ―― 集中した事業展開が鍵
T社の失敗の一因として、同時に二つの新事業を立ち上げたことが挙げられます。企業資源や経営資源が分散されると、それぞれの事業に対する集中度が低下し、結果的に両事業がうまくいかなくなるリスクが高まります。特に中小企業においては、事業の優先順位を明確にし、確実に一つずつ事業基盤を築く方が得策です。
事業化には長期的な忍耐と戦略が不可欠
新技術開発はゴールではなく、ビジネスのスタート地点に過ぎません。新技術の事業化には、計画性、戦略、そして粘り強い推進力が欠かせません。企業は新技術の事業化に際して、その困難さを肝に銘じ、地に足のついたビジネス戦略を構築する必要があります。慎重かつ大胆に、長期的な視点で進むことこそが、新技術を真に成功させる道筋といえるでしょう。
技術の事業化は、想像以上に厳しい道です。しかし、周到な準備と強い経営ビジョンを持って取り組むことで、企業の成長と発展が実現されるのです。
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