孔子は、「聖人」や「仁者」と呼ばれるような人物には自分は及ばないと語った。
しかしその上で、**「私は学ぶことを厭(いと)わず、教えることにも倦(う)まない――それが私という人間なのだ」**と自らの姿勢を明らかにする。
これは、到達できるかどうかではなく、“目指し続ける意志”にこそ価値があるという、孔子らしい自己認識に基づいた言葉である。
これを聞いた弟子の公西華は、深くうなずいてこう言った――
「まさにそこが、私たち弟子にはとても真似できないところです」と。
原文
子曰、若聖與仁、則吾豈敢、抑爲之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣。公西華曰、正唯弟子不能學也。
書き下し文
子(し)曰(い)わく、聖(せい)と仁(じん)との若(ごと)きは、則(すなわ)ち吾(われ)豈(あ)えてせんや。
抑々(そもそも)之(これ)を為(な)して厭(いと)わず、人(ひと)を誨(おし)えて倦(う)まず、則ち云爾(しかり)と謂(い)うべきのみ。公西華(こうせいか)曰(い)わく、正(まさ)に唯(た)だ弟子(ていし)学(まな)ぶこと能(あた)わざるなり。
現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 「聖と仁との若きは、吾豈敢えてせんや」
→ 聖人や仁者のような存在になることについて、私はとても自分がそうだとは言えない。 - 「抑々之を為して厭わず、人を誨えて倦まず」
→ ただ、私は物事を行うのに飽きることなく、人に教えるのにも倦むことはない。 - 「則ち云爾と謂うべきのみ」
→ だから、せいぜい「そのような姿勢を持っている」と言えるだけだ。 - 「公西華曰く、正に唯だ弟子学ぶこと能わざるなり」
→ (弟子の)公西華は言った:「それこそ、私たち弟子が到底学びきれないことです。」
用語解説
- 聖(せい):理想的な賢者。最上の徳と智慧を備えた人物。
- 仁(じん):思いやり・誠実・人間としての最高の徳。
- 豈敢(あえてせんや):とても自分にはできない、という謙遜の表現。
- 為して厭わず:努力を続けることを嫌がらない、飽きずに取り組む。
- 誨えて倦まず:人に教えることに飽きることがない。
- 云爾(しかり)と謂うべきのみ:それくらいは言ってもよいだろう、という控えめな自己評価。
- 公西華(こうせいか):孔子の弟子。名は宰我、字を子貢とも言う。ここでは謙虚な感想を述べている。
全体の現代語訳(まとめ)
孔子はこう言いました:
「聖人や仁者のようになれるとは、とても自分では思えない。
ただ、私は物事に対して飽きることなく努力し、人に教えることも決して嫌にならない。
せいぜい、“そうした姿勢を持っている”とは言えるかもしれない。」
それを聞いた弟子の公西華はこう言った:
「まさにそれこそが、私たち弟子には到底真似できない点なのです。」
解釈と現代的意義
この章句は、孔子の謙虚さと継続力、教育者としての真摯な姿勢を表す名言です。
- 自らを「聖」や「仁」には遠いと評価しながらも、
“継続して努力し、誠実に教える”ことの価値を重んじている - この態度に対して、弟子は**「そこが一番学びたいが最も難しい」**と感嘆している
つまり、“継続して努力し続ける力”=最高の学びの対象であるという構造です。
ビジネスにおける解釈と適用
■「自己を過大評価せず、姿勢で尊敬を得る」
──リーダーは「自分はすごい」と言うよりも、“努力し続ける姿”で信頼を集める。
■「続ける力こそ、学びの原点」
──継続・根気・教え続ける姿勢は、リーダーシップ・人材育成・信頼構築の要。
■「知識ではなく、姿勢が人を動かす」
──言っていることよりも、“やり続ける人”に人は学び、ついていく。
■「真の謙虚さは、継続を通して語られる」
──“私はまだまだです”と言いながらも、結果として誰よりも動き続けている姿が、最大の教育効果を持つ。
まとめ
「聖を目指さず、誠を尽くす──続ける者にこそ、人は学ぶ」
この章句は、謙虚な姿勢・努力の継続・教育者の心得・リーダーの本質をすべて含んだ極めて現代的な知恵です。
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