孟子は、人としての可能性を捨ててしまう**「自暴(じぼう)」と「自棄(じき)」**の二つの態度を厳しく戒めている。
- **「自暴」**とは、口を開けば礼儀や道徳など無意味だと切り捨てる者のこと。
- **「自棄」**とは、礼や義を価値あるものと認めながらも、「自分には関係がない」「遠すぎる」として努力すら放棄する者のこと。
どちらも、人が本来持つべき徳と希望を否定する態度であり、孟子はそのような者とは「語り合うこともできず」「共に何かを成すこともできない」と突き放す。
仁は、人が最も安らかに生きられる**「心の住処」であり、
義は、人が歩むべき「正しい道」**である。
それなのに、人がこの安らかな場所を空っぽにし、正しい道を捨ててさまよう姿を見るのは、まさに「哀哉(かな)しいかな」。
孟子はここで、人間が自らを見限ることの悲劇を、静かに、しかし深く嘆いている。
原文(ふりがな付き)
孟子(もうし)曰(いわ)く、
自(みずか)ら暴(そこな)う者は、与(とも)に言(い)うべからず。
自(みずか)ら棄(す)つる者は、与に為(な)すべからず。
言(い)いて礼義(れいぎ)を非(そし)るを、之(これ)を自暴(じぼう)と謂(い)う。
吾(わ)が身(み)、仁(じん)に居(お)り、義(ぎ)に由(よ)ること能(あた)わずとするを、之を自棄(じき)と謂う。
仁は人の安宅(あんたく)なり。
義は人の正路(せいろ)なり。
安宅を曠(むな)しくして居らず、
正路を舎(す)てて由らず、哀(かな)しいかな。
注釈
- 自暴(じぼう):「どうせ無意味」と礼儀や道徳を否定する破壊的態度。
- 自棄(じき):「自分には無理」として、道徳を遠ざけてしまう諦念の姿勢。
- 安宅(あんたく):心のよりどころ。仁を実践することによって得られる内的な安らぎ。
- 正路(せいろ):義=正しい行い。人生の正道。
- 哀哉(かなしいかな):嘆きの言葉。人が自らを見限り道を外すことの深い悲しみ。
パーマリンク案(英語スラッグ)
- never-give-up-on-yourself(自分を見限るな)
- 仁-and-義-are-your-home(仁と義は人の居場所)
- self-destruction-starts-with-doubt(自暴は心の否定から)
- walk-the-righteous-road(正しい道を歩け)
この章は「自暴自棄」という言葉の語源ともなった、孟子の人間観の核心をなす名言です。
人は、仁と義を諦めた瞬間に崩れるという警句として、現代にも通じる普遍的な教訓が込められています。
原文
孟子曰、自暴者、不可與言也;自棄者、不可與為也。
言、非禮義、謂之自暴也;吾身不能居仁由義、謂之自棄也。
仁人之安宅也、義人之正路也;曠安宅而弗居、舍正路而不由、哀哉。
書き下し文
孟子曰(いわ)く、自(みずか)ら暴(あら)ぶる者は、与(とも)に言(い)うべからず。
自(みずか)ら棄(す)つる者は、与に為(な)すべからず。
言(げん)において、礼義を非(ひ)とする者を、自暴と謂(い)う。
己(おのれ)の身において、仁に居り義に由(よ)ること能(あた)わずとする者を、自棄と謂う。
仁は人の安宅(あんたく)なり。義は人の正路(せいろ)なり。
それなのに、安宅を広く空けて居住せず、正しい道を捨てて歩まない──
哀しいことではないか。
現代語訳(逐語/一文ずつ)
- 孟子は言った:
- 自分から道を外れるような者とは、言葉を交わすこともできない。
- 自分の価値を捨てている者とは、共に事を成すこともできない。
- 「礼儀や正義など意味がない」と言う者を、孟子は「自暴(自分をあらく乱す者)」と呼ぶ。
- 「自分には仁を実践することも義を通すこともできない」と諦める者を、孟子は「自棄(自らを見捨てる者)」と呼ぶ。
- 仁は、人が安心して暮らすための“住まい”であり、義は人が進むべき“まっすぐな道”である。
- それなのに、
- その“家”をがら空きにして住まず、
- 正しい“道”を避けて通らないのは──
なんと悲しいことではないか。
用語解説
用語 | 解説 |
---|---|
自暴(じぼう) | 自ら礼義を否定して、自分を粗末に扱うこと。自損行為。 |
自棄(じき) | 自分にはどうせ無理と諦め、自己放棄する態度。 |
安宅(あんたく) | 安心して住める家。ここでは「仁」を象徴。 |
正路(せいろ) | 正しい道=義の比喩。 |
曠(ひろ)しくして居らず | 空けたままで、そこに住もうとしないこと。チャンスを活かさない様子。 |
全体の現代語訳(まとめ)
孟子はこう語った:
自分から道徳を否定し、粗暴な言葉を吐くような人間とは、
言葉を交わす意味さえない。
また、自分には正義も誠実も実践できないと最初からあきらめている者とは、
一緒に物事を進めることなどできない。
「礼や義を否定する」ことは、自分の人間性を損なう行為であり、
「仁や義を実践できない」と決めつけるのは、自分の可能性を見捨てる行為だ。
そもそも、仁とは人が安心して住まう“家”のようなものであり、
義とは正しく歩む“道”そのものである。
それなのに──
その家に住まず、
その道を通らずに、
どこへ向かおうというのか。
本当に、哀れで残念なことではないか。
解釈と現代的意義
この章句では、自己否定の危険性と、道徳的指針の価値が深く説かれています。
1. 自分の可能性を放棄してはならない
- 「自分なんかどうせ」「無理に決まってる」など、思考の放棄が真の失敗である。
- 他者の信頼や協力は、「まず自分が自分を信じている」人に集まる。
2. 礼と義は、個人にとっての“土台”である
- 仁(思いやり)=安心して立てこもれる家
- 義(正しさ)=迷わず進める道
→これらを否定する者に、安らぎや前進はあり得ない。
3. 「言葉」と「行動」の人間的品格
- 自暴=乱れた言動で信頼を損なう
- 自棄=行動を放棄して自分を見限る
→ どちらも、自滅と孤立を招く。
ビジネスにおける解釈と適用
1. 「できない」と決めつける部下・自分自身への対応
- 「どうせ無理です」「うまくいかないに決まってる」といった“自棄”は、成長を拒否する自己封鎖。
- 真に有能なマネージャーは、「可能性への信頼」を呼び戻す支援者である。
2. “礼儀”と“正義”のない言動は、信頼を失う
- 人間関係でもビジネスでも、ルールや倫理を軽視する者は、どれだけ能力があっても信頼されない。
- 礼を尽くし、義に従うことが“安心して取引できる相手”となる第一歩。
3. 行動しない者に未来はない
- 言い訳ばかりで動かない、自分から放棄する者に、チャンスは巡ってこない。
- “仁に居り、義に由る”ことが、成功と信頼をもたらす。
ビジネス用心得タイトル
「仁義を捨てる者に、未来は宿らず──“自棄”をやめて、己を信じよ」
この章句は、自己の在り方と社会における立ち位置を、根本から問い直す強いメッセージを含んでいます。
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