L社は襖を製造する企業だ。俺に協力の話が持ち込まれたのは、石油危機の真っ只中だった昭和49年の夏のこと。当時、L社は膨大な在庫を抱え、売り上げの低迷に苦しんでいた。メーカー価格1800円の製品が値崩れを起こし、1500円でも売れず、ついには1400円台まで価格が下がっていた状況だった。
この状態では到底採算が合わない。だが、コスト削減についてはすでに限界まで切り詰めてきたため、これ以上の削減は不可能に近かった。それだけでは済まない問題も抱えていた。
ある大手企業が、その資本力を背景に近代的な量産工場を立ち上げ、低コストで大量の襖を安価に市場に投入し始めていたのだ。この動きが本格化すれば、L社のような小規模企業が生き残る余地はほとんどない。そんな状況で、どうすればいいのかと相談を受けた。
現物を見せてもらうと、そこにあったのは、形ばかりの粗悪品で、一言で言えば「ブスマ」と呼ぶのがふさわしい代物だった。
ここには「コスト病」、つまり「安値病」が蔓延していると直感した。この病にかかると、「安ければすべて良し」という偏った発想に陥り、肝心のお客様のニーズや期待が完全に置き去りにされてしまう。お客様の要求を無視して作られた商品が、真の意味で支持を得ることなどありえない。価格だけに執着する姿勢では、いずれ顧客の信頼を失うのは目に見えている。
とにかく「ブスマ」ではなく「フスマ」を作るべきだと考えた。L社長に問屋の意向を探ってもらったところ、ある一社だけが「高くても構わないから、より良いものを作れ」という声を上げていた。その言葉に背中を押され、試しに「フスマ」を試作することにした。あとは市場に出し、お客様自身に評価を委ねるという方針を取ることにした。
L社長は、私の提案に従い「ブスマ」ではなく「フスマ」を製造し、価格を2500円に設定して販売してみる決断を下した。しかし、こんな高額では到底売れるはずがないという不安を拭い去ることはできなかった。そんな迷いに対し、私は「こういう時こそ、自ら売り込みに出向き、お客様の反応を直接確かめるべきだ」と強引に背中を押した。行動で結果を確かめるしか道はない、と強く伝えたのだ。
ようやく覚悟を決めたL社長は、自ら商品を売る決意を固めた。そして、「良いものを作れ」と背中を押してくれた問屋の社長に対し、「同行販売」の協力を求めることにした。共に現場に立つことで、直接お客様の反応を見極めようという腹づもりだった。
しかし、問屋の社長は「メーカーの社長が同行販売などするものではない」と断固反対した。簡単には折れそうにない態度に、L社長も一瞬くじけそうになったが、私は粘り強く説得するように勧めた。その結果、なんとか二日間だけという条件付きで許可を得ることができた。ここからが本当の勝負だと思った。
L社長は「二日間ではどうにもならない」と不満を漏らした。というのも、私と交わした約束で、一年間に延べ二千店を訪問する計画を立てていたからだ。それを思うと、たった二日では話にならない。そこで私は、「気にせず無許可で続ければいい。実績さえ出せば、問屋の社長だって文句を言わなくなる」と強く背中を押した。挑戦を続ける覚悟を促す言葉だった。
昭和50年の1月から、L社長の同行販売がついにスタートした。実際のところ、問屋のセールスマンは道案内役に過ぎず、L社長が直接建具店と商談をまとめ、セールスマンが納品書を発行するという形だった。販売活動が進むにつれ、実績はみるみる上がっていった。そして予想通り、L社長の行動は問屋の社長にも黙認されることとなった。結果がすべてを物語っていた。
L社長の奮闘ぶりは目を見張るものがあった。学生時代にスポーツで鍛えた体力が活かされ、毎晩のように夜中の11時や12時まで活動を続けていた。その影響で、奥様は「主人に付き合っていると寝るのは1時、時には2時にもなり、もうフラフラです」と私に漏らすほどだった。しかし、その表情は笑顔に満ちていた。経理を担当する彼女にとって、売上の急増と利益の大幅な伸びによって、長年の資金繰りの悩みが一気に解消されたことが大きな喜びとなっていたのだ。
2月末までに、L社長は驚くべきことに345店舗を訪問していた。一日の最高記録は19店舗というハードスケジュールだった。この頃になると、製造部門も全力で対応していたものの、次々と舞い込む注文に追いつけなくなっていた。受注の勢いは、もはやL社のキャパシティを超えつつあった。
これ以上続ければ社員が倒れてしまう。私はL社長と相談し、方針を見直すことにした。社員の健康を犠牲にしてまで事業を続けるのは、本来あるべき経営の姿ではない。そうして、L社長の「蛇口作戦」は一時的に中止されることとなった。次の課題は供給体制の整備だった。工場の生産能力を高め、急増する需要に対応できる仕組みを作る必要があった。
不思議なもので、社長が蛇口作戦を止めた途端、それまで急上昇していた売上は、ぴたりと横ばいに転じた。市場の反応の正直さを、改めて思い知らされた瞬間だった。
二ヶ月ほど経った頃、問屋の社長からL社長に一本の電話が入った。その内容は厳しい叱責だった。「メーカーの社長なんて横着者ばかりだ。自分の商品の販売を問屋に丸投げして、自分では売ろうとしない。そんな態度は許されない。心を入れ替えて、社長自ら売れ!」という、痛烈な言葉だった。L社長にとっては予想外の展開だったが、その言葉には市場の厳しさと問屋の本音が込められていた。
半年前には「メーカーの社長が同行販売なんてするものではない」と言っていたあの問屋の社長が、今度は正反対のことを言い出したのだ。L社長は驚きつつも平身低頭で謝罪し、心を入れ替えることを約束した。得意先に対しては、素直に非を認め謝ることが最良の策だと心得ていたからだ。その姿勢が信頼関係を築く鍵になると、L社長は十分に理解していた。
それからしばらくして、秋の気配が近づく頃、今度は問屋の社長自らがL社を訪ねてきた。これは前代未聞の異例の出来事だった。その訪問の目的はこうだった。「この秋に特売会を開催する予定だ。その際、L社の襖を重点商品として扱いたい。二つある重点商品の一つにするつもりだから、ぜひ協賛してほしい」という要請だった。問屋の社長がここまで積極的に動くのは、L社の襖に対する評価が確実に高まっている証拠だった。
ついに問屋の社長自らが動き出した。それは、L社が問屋にとってなくてはならない重要な存在になったことを意味していた。L社長のたゆまぬ努力は、ここにきて見事に実を結んだと言えるだろう。ちなみに、大企業が誇る量産工場で作られた襖はほとんど売れず、その立派な設備も稼働する機会がほとんどないという噂が聞こえてきた。結局、市場はただ安いだけのものではなく、質の良い本物を選んだのである。
その失敗の原因は明確だった。一つは、「安いことはいいことだ」という短絡的な「安物主義」に陥ったこと。もう一つは、自社で製造している材料をさばくことだけを優先した結果、製品の設計に重大な欠陥が生じていたことだ。これらの要因が重なり、顧客のニーズを満たすどころか、市場に受け入れられない製品を生み出してしまったのである。
どれほど大企業であっても、どれほど資金力や影響力があっても、顧客を満足させることを忘れた独りよがりの姿勢では、事業を成功させることはできない。この事実は、私たちに重要な教訓を与えてくれる。真に大切なのは、顧客のニーズに耳を傾け、その期待に応える製品やサービスを提供することであり、それを怠った瞬間にどんな事業も行き詰まるということだ。
このL社の事例から、問屋を動機づけ、協力を得るための具体的な方法が見えてきます。以下に、そのポイントをまとめます。
1. 顧客視点の品質改善
- 安さより品質を重視: 単なる安値競争ではなく、顧客が本当に求める品質に立ち返ることが重要です。L社は、問屋の一社が「高くとも良いものを」という要望を示してくれたことをヒントに、品質向上へと舵を切りました。結果として、顧客が満足する商品が提供され、価格競争からも抜け出しました。
2. 社長自らの販売活動
- 同行販売での現場理解: L社長は社長自ら問屋のセールスマンと同行し、現場で販売活動を行いました。自社商品が売れるかどうかを直接確認し、改善を即座に行えるため、問屋もその姿勢に引き込まれ、協力体制を強化しました。
- 継続的な販売訪問: 社長が自ら現場に立ち続けたことで、問屋や小売店の信頼を得ました。さらに、同行販売が一時中止された際に、問屋から「社長が売るべきだ」という叱責が入るほど、L社長の行動は問屋の間に信頼と期待を醸成しました。
3. 相手に「貸し」を作る
- 特売会の依頼が生まれる信頼関係: 長期的に信頼関係を築くことにより、問屋側から特売会への協賛要請を受けるようになりました。これによりL社の商品が「なくてはならない存在」へと格上げされ、販売促進においても有利な立場を確保できました。
4. 消費者満足を最優先に
- 商品設計の重要性: 大企業が安価な襖を量産しようとしたが、消費者満足を軽視して失敗した例に対し、L社は消費者の要望に即した商品を提供することで成功を収めました。「顧客視点」に立つことが、小さな企業であっても大企業に打ち勝つ戦略となります。
結論
L社長の例は、単に商品の価格を下げるのではなく、消費者の満足を追求した商品を提供することが、問屋の信頼と協力を得る近道であることを示しています。
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