人は飽食・安逸だけでは禽獣に近づく。人を人たらしめるのは道である
孟子は舜の治世を引きながら、次のように説く。
舜は農政の責任者である后稷に命じて、民に五穀の耕作法を教えさせた。
これにより、五穀は熟し、人々は育ち、長く生きられるようになった。
しかし――
「人は飽食して温かい衣をまとい、安逸な暮らしをしていても、教育がなければ禽獣と変わらなくなる」
だからこそ、聖人はこれを憂い、舜は契を司徒(教育官)に任命し、人倫を教えさせた。
この人倫こそが、儒教における「五倫」である。
五倫の道(ごりん)
関係 | 教え |
---|---|
父子(ふし) | 親(しん)…父と子の間には愛情があるべし |
君臣(くんしん) | 義(ぎ)…君と臣の関係は正義に基づくべし |
夫婦(ふうふ) | 別(べつ)…夫婦は役割と節度をわきまえるべし |
長幼(ちょうよう) | 序(じょ)…年長者と年少者の順序を守るべし |
朋友(ほうゆう) | 信(しん)…友人関係には信義が必要である |
堯(放勲)はこうも言った:
「民をねぎらい、迎え入れ、過ちを正し、弱きを助け、導き、
自らの道を得させ、その上で徳をもって振い立たせよ」
これが聖人の政治であり、民を思う心は深く、ゆえに耕作している暇などないのだ。
引用(ふりがな付き)
人(ひと)の道(みち)有(あ)るや。飽食(ほうしょく)煖衣(だんい)、逸居(いっきょ)して教(おし)えらるる無(な)ければ、則(すなわ)ち禽獣(きんじゅう)に近(ちか)し。
父子(ふし)親(しん)有(あ)り、君臣(くんしん)義(ぎ)有(あ)り、夫婦(ふうふ)別(べつ)有(あ)り、長幼(ちょうよう)序(じょ)有(あ)り、朋友(ほうゆう)信(しん)有(あ)り。
簡単な注釈
- 后稷(こうしょく):五穀を育てる農政の神格的存在。実在の周の始祖・棄ともされる。
- 契(せつ):教育を担当したとされる舜の賢臣。
- 五倫(ごりん):儒家道徳の基本的人間関係の道。社会秩序の基盤。
- 放勲(ほうくん):堯帝の本名。理想の聖人君主とされる。
- 振徳(しんとく):「徳をもって人を励ます」こと。施しにとどまらず、心を動かす行為。
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この章は、孟子思想の中でも極めて重要な箇所です。
なぜなら、**「物質的充足の先に教育と徳育がなければ、人は人でなくなる」**という普遍的な命題が語られているからです。
また、「五倫」の教えは儒家倫理の根幹であり、中国・朝鮮・日本の社会規範に深く影響を与えた概念でもあります。
1. 原文
后稷教民稼穡,樹藝五穀。五穀熟而民人育。
人之道也。飽食煖衣,逸居而無教,則近於禽獸矣。
聖人有憂之,使契為司徒,教以人倫:父子有親,君臣有義,夫婦有別,長幼有序,朋友有信。
放勳曰:「勞之來之,匡之直之,輔之翼之,使自得之,又從而振德之。」
聖人之憂民如此,而暇耕乎?
2. 書き下し文
后稷、民に稼穡を教え、五穀を樹藝す。五穀熟して、民人育す。人の道あるや。
飽食煖衣し、逸居して教えらるることなければ、則ち禽獣に近し。
聖人、之を憂え、契をして司徒と為らしめ、人倫を以て教えしむ。
父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり。
放勳曰く、「之を労して来たらし、之を匡して直くし、之を輔けて翼け、之を自得せしめ、また従いて之を振徳せよ」と。
聖人の民を憂うること、かくのごとし。而るに耕すに暇あらんや。
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 后稷は民に農業を教え、五穀を栽培させた。
→ 食物が実ることで、人々の生活は支えられた。 - これこそが人間の道(人道)である。
→ 飢えを凌ぎ、衣服で温まり、安定した暮らしを送ることが人間らしい生き方。 - だが、食べて温かく過ごし、のんびり暮らしていても、教えがなければ人は禽獣と変わらない。
→ 人間を人間たらしめるのは「教育」である。 - 聖人はこれを深く憂え、契を司徒に任命して、人倫を教えさせた。
→ 父子の親愛、君臣の忠義、夫婦の節度、長幼の秩序、朋友の信頼──これが人間社会を築く基礎である。 - 放勳(堯)は言った:
→ 「民を労わって引き寄せ、誤りを正し、助けて導き、自ら道を悟らせ、さらに徳を高めよ」と。 - このように、聖人は民を深く案じていたのだ。農業をする暇などあるだろうか。
→ 公務に専念し、生活者を支えることこそがリーダーの役割である。
4. 用語解説
- 后稷(こうしょく):伝説上の農業の神。農政の始祖とされる。
- 稼穡(かしょく):農作業(稼=種まき、穡=収穫)。
- 五穀(ごこく):粟、稲、麦、大豆、小豆など、主要穀物。
- 逸居(いつきょ):快適な住まいでのんびり暮らすこと。
- 契(けい):伝説の賢臣。殷王朝の祖。
- 司徒(しと):古代中国の官名で、民政・教育をつかさどる職。
- 人倫(じんりん):人間関係における基本的な道義・倫理。
- 放勳(ほうくん):堯のこと。聖王の代表。
- 振徳(しんとく):徳をさらに高めること。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
后稷は人々に農業を教え、穀物を育てさせ、人々の命を養った。
しかし、衣食が足りて生活が安定していても、教育がなければ人は獣と変わらない。
このことを憂えた堯は、契を司徒に任じ、家庭・社会・友情における人としての在り方(人倫)を教えさせた。
堯は「民をいたわり導き、自立させ、さらに徳を振るわせよ」と語った。
これほどまでに聖人は民を思いやっていたのである。
彼らが農業に時間を割く暇などあるだろうか。――それがリーダーの姿である。
6. 解釈と現代的意義
この章句では、孟子が説く**「教育と倫理の必要性」**が非常に明確に示されています。
- 物質的な豊かさだけでは人間は完成しない
食事・衣服・住まいがあっても、倫理や教育がなければ人間社会は成立しない。
→ 現代の“経済格差”や“無教育の危機”にもつながる本質的視点。 - 為政者の最大の関心事は“民の教育”にある
単なる物質供給だけでなく、社会全体を構成する人間関係や価値観を育てることが政治の本質。 - 「徳を育てる」支援型リーダーの理想像
トップダウンの支配ではなく、「自ら悟らせ、助け、育てる」という伴走型支援が重要であると説いている。
7. ビジネスにおける解釈と適用
「教育なき成長は、組織を獣に変える」
- 働きやすい職場・高い給与があっても、理念や人間関係の教育がなければ、会社は“利己と利益”だけの場になる。
- 倫理と信頼関係を重視する研修・育成こそが“組織を人間的に保つ”鍵。
「上に立つ者の役目は“徳を育てる支援者”になること」
- 押し付けるのではなく、支援し、導き、自ら気づかせ、成長を後押しする──これが真のリーダー。
「制度より人、結果より関係性」
- 制度設計も必要だが、個人と個人の“信頼”や“尊重”があって初めて組織は健全に機能する。
8. ビジネス用心得タイトル
「衣食に満たされても、人は育たぬ──育成と倫理が組織を人間たらしめる」
この章句は、孟子が理想国家を語る中でも「教育と倫理」の必要性を端的に示した一節です。
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