— 封建の理想に潜む、世襲と分裂の危険
背景と要旨
貞観十一年、太宗は「周の封建制が800年続き、秦の郡県制が二代で滅んだ」歴史を踏まえ、皇族・功臣を州の長官(刺史)に任命し、その地位を世襲させようと考えた。
この制度構想に対して、李百薬と馬周が上奏をもって強く反対。歴史的教訓、政体の優劣、人物の器量、そして太宗自身の徳政との整合性に至るまで、詳細に論じた。
最終的に太宗は納得し、封建制の世襲導入を断念した。
李百薬の上奏:思想と歴史を通じた制度批判
李百薬は、以下のようなポイントで封建制に異議を唱えた:
封建と郡県の比較
- 周は封建制により一族が互いを支え、宗廟を守ったが、次第に諸侯が分裂の火種となった。
- 秦は郡県制を採用し中央集権化したが、皇族を冷遇した結果、民意を得られず短命に終わった。
- しかし、それは制度の優劣よりも、王の徳と政治の執行に帰するものとする。
制度と時代の不一致
- 「百王の末期に三代の法を施す」ような無理をしてはならない。
- 時代に応じて制度は柔軟に変えるべきで、「膠柱鼓瑟(こうちゅうこしつ:融通の利かない例え)」のように旧法に固執すべきでない。
封建の具体的な弊害
- 封建諸侯は家柄と地位に甘え、贅沢と傲慢に流れる。
- 郡県制の長官は功績と能力で任用され、清廉である例が多い(羊続・范冉・庾蓽・鄧攸など)。
鋭い反問と皮肉
- 魏の曹冏や晋の陸機が「諸侯は苦楽を共にする」と称えたが、それは空論に過ぎない。
- 現実には、封建諸侯が争乱や謀反の原因となってきた歴史がある。
馬周の上奏:人材と世襲のリスクに基づく現実的判断
馬周は、以下のように補足的な視点で述べた:
子弟の世襲による危険
- 堯や舜でさえ、子に徳がない場合があった(丹朱・商均)。
- 先祖に功があっても、子が無能であれば、庶民が被害を受けることになる。
政策提言としての代案
- 土地と税収(食実封)は与えてもよいが、「才行」に応じて役職に就けるべき。
- 功臣への恩は、子孫への無条件な役職継承ではなく、「福禄の継承(財と地位の保持)」に留めるべき。
太宗の判断と政治哲学
李百薬・馬周の意見を受けて、太宗は最終的に子弟・功臣への刺史職の世襲を取りやめた。
これは太宗が持っていた「至公(しこう=公平無私)」の統治理念に沿うものであり、また政治は人にあり、制度を活かすのは君主の選人眼にかかっているという根本姿勢を明確にした判断であった。
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