貞観五年、太宗は側近たちに語った。
「忠義の臣、節義の士は、いつの時代にもいるものだ。では、隋の時代には誰がいたか」――
この問いに、王珪は三人の忠臣を挙げ、その行動を報告した。
まず一人目は、太常丞・元善達。
混乱の続く隋末、都にいた彼は、各地で群雄が割拠する様を見て、遠く揚州の煬帝のもとへ馬を走らせた。
帰京を強く諫めたが、煬帝はそれを拒み、さらに泣いて訴えたところ怒りを買い、辺境に左遷され、ついに南地の疫病で死去した。
二人目は、虎賁郎中・独孤盛。
揚州にて宿直していた彼は、宇文化及による煬帝暗殺の際、ただ一人剣を手に立ち向かい、殉死した。
三人目として太宗自ら語ったのは、隋の将軍・屈突通。
潼関で唐軍と戦った後、都の陥落を知って東へ撤退。追いついた唐軍から説得されるも、「二帝に仕えた忠義を今貫かねば何のための生か」と断り、自らの息子をも射殺せんとした。
配下は逃げるも、彼はただ一人、東南を望み慟哭し、ついに捕らえられた。
唐の高祖(太宗の父)は彼に仕官を勧めたが、屈突通は病を理由に固辞し続けたという。
太宗はこれらの忠臣の行動を深く賞賛し、さらに煬帝に諫言して処刑された者の子孫を探させ、手厚く報いたのであった。
引用(ふりがな付き)
「忠臣(ちゅうしん)烈士(れっし)、何(いず)れの代(よ)か之(これ)無(な)からん」
「我(われ)隋家(ずいけ)の恩(おん)を蒙(こうむ)りて、将帥(しょうすい)を任(にん)ぜられし。智(ち)と力(りょく)ともに尽(つ)きてこの敗(はい)に致(いた)るといえども、臣(しん)国(くに)に竭(つ)くさざるに非(あら)ず」
注釈
- 元善達(げん・ぜんたつ):隋末の官人。煬帝に対し帰京を諫言した忠臣。遠地に流されて病死。
- 独孤盛(どっこ・せい):煬帝暗殺時に殉死した近衛隊長。忠勇の象徴。
- 屈突通(くつとつ・どう):隋の老将。唐に抗し、捕らえられるも忠義を守って仕官を拒否。
- 宇文化及(う・ぶんかきゅう):隋末に煬帝を暗殺し、反乱を起こした軍閥の首領。
- 潼関(とうかん)・桃林:いずれも長安~洛陽間の戦略要衝。反乱軍や唐軍の激突の地。
- 煬帝直諫被誅者(ようだい ちょっかん ひちゅうしゃ):君主に諫言して命を落とした忠臣のこと。
パーマリンク(英語スラッグ)
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「忠義は時代や主君を越えて尊ばれる」という本章の精神を示すスラッグです。
代案として、heroes-of-a-lost-court
(滅びた朝の義士たち)、faithful-even-in-defeat
(敗れても忠を尽くす)などもご提案可能です。
この章は、たとえ滅んだ政権の忠臣であっても、その節義と忠誠の精神は時代を越えて尊敬されるべきであるという太宗の深い「義」の精神を示しています。
敵にすら礼をもって報いることで、太宗の「忠義」観が、単なる主君への服従ではなく、信念を貫いた者への共感と尊重に基づいていることが明らかになります。
以下は『貞観政要』巻一に見える、貞観五年の章句における「太宗と忠臣烈士の議論」についての整理です。以下の構成で解説いたします。
貞観政要 巻一「忠臣烈士の顕彰と太宗の言葉」整理
1. 原文
貞觀五年、太宗謂侍臣曰、「忠臣烈士、何代無之。公等知隋、誰爲忠貞」。
王珪曰、「臣聞太常丞元善在京留守、見羣賊縱橫、輒轉騎詣江都、諫煬帝、令還京師。煬帝不受其言、後更涕泣極諫。煬帝怒、乃遣兵逐之、身死瘴癘之地。
有虎賁郎中獨孤某在江都宿衛、宇文氏作亂起事、惟一身抗拒而死」。
太宗曰、「屈突通爲隋將、共國家戰於潼關、聞京城陷、乃引兵東走。義兵起於桃林、乃遣其家人往招慰、遽殺其奴。又遣其子往、乃云『我蒙隋家驅使、已事兩帝、今者吾死節之秋。汝舊於我家為父子、今則於我家為仇讎』。因射之、其子走、所領士卒多潰散。惟一身、向東南慟哭盡哀。曰『臣荷國恩、任當將帥、智力俱盡、致此敗績、非臣不竭忠於國』。言盡、為兵擒之。太上皇授其官、每託疾固辭。此之忠節、足可嘉尚」。
因敕有司、訪大業中直諫被誅者子孫、聞奏。
2. 書き下し文
貞観五年、太宗、侍臣に謂(い)ひて曰はく、「忠臣・烈士、何(いず)れの代にか無からん。公等、隋にて誰をか忠貞とすと知るや」。
王珪曰はく、「臣聞くに、太常丞・元善、京に留守し、群賊の縦横するを見て、輒ち騎を転じて江都に詣で、煬帝に諫して京師に還らしめんとす。煬帝これを受けず。後に更に涕泣して極諫す。煬帝怒りて、乃ち兵をして之を逐はしむ。身は瘴癘(しょうれい)の地に死す。
また、虎賁郎中・独孤某、江都に宿衛す。宇文氏の乱起こるに及び、ただ一身にして抗して死す」。
太宗曰はく、「屈突通は隋の将たり。国家と共に潼関に戦ひ、京城の陥るを聞き、乃ち兵を引きて東に走る。義兵桃林に起こる。家人をして慰撫せしめしに、すぐに其の奴を殺す。又その子を遣はすに、乃ち曰はく『我、隋家の驅使を蒙り、すでに両帝に事ふ。今は死節の秋なり。汝、旧(もと)我が家にて父子たりしも、今は我が家の仇讐なり』。因りて之を射る。其の子走る。所領の士卒多く潰散す。ただ一身にして東南に向かひて慟哭して哀しみを尽くす。曰はく『臣、国恩を荷ひ、将帥に任ず。智力俱に尽きて此の敗績を致す。臣が国に忠を尽くさざるには非ず』と。言尽きて、兵に擒(とら)はる。太上皇、その官を授け給ふも、つねに疾を託して固辞す。此の忠節、嘉尚すべきものなり」と。
因りて有司に敕し、大業中、直諫して誅せられし者の子孫を訪(たず)ねて聞奏せしめたまふ。
3. 現代語訳(逐語)
- 貞観5年、太宗が侍臣にこう語った。「忠臣や烈士というものは、どの時代にもいるものだ。あなたたちは、隋の時代において誰が忠義を貫いたと考えるか」
- 王珪が答えた。「太常丞・元善は、京を守る任にあり、反乱軍が横行するのを見て、すぐに江都へ駆けつけ、煬帝に帰京を促すよう諫めました。煬帝は聞き入れず、後に再び涙ながらに強く諫めたが、逆に怒りを買って兵に追われ、瘴癘の地で命を落としました。
- また、虎賁郎中・独孤某は江都で宿衛にあたり、宇文氏の乱が起こった時にただ一人抗って死を遂げました」
- 太宗が続けた。「屈突通は隋の将軍で、潼関で国を守って戦っていたが、都が陥落したと聞いて兵を率いて東へ撤退した。義兵が桃林で挙兵すると、その家人を派遣して慰めようとしたが、即座に自分の奴を殺した。次に息子を遣わすと、『私は隋に仕え、すでに二代の皇帝に忠義を尽くした。今は節を守って死ぬ時だ。お前はかつて我が家に仕えたが、今は仇である』と言い、息子に矢を放った。その子は逃げ、兵も多く離散した。屈突通はただ一人、東南に向かって慟哭し、『私は国の恩を受け、将としての任を受けた。全力を尽くしてこの敗北となったが、それは私が忠義を尽くさなかったのではない』と言い残して、敵に捕らえられた。太上皇が官職を与えたが、屈突通はいつも病と称して固辞していた。この忠義はまことに称賛に値する」
- 太宗はこれに続けて、大業年間において直諫して処刑された者の子孫を調査するよう命じた。
4. 用語解説
- 瘴癘(しょうれい):疫病・熱病の多い土地。
- 虎賁郎中(こほんろうちゅう):皇帝の近衛兵を指す武官。
- 屈突通(くつとつとう):隋の将軍。忠義をもって国に殉じた人物として知られる。
- 慰撫(いぶ):慰めて心を和らげること。
- 慟哭(どうこく):声をあげて激しく泣くこと。
5. 全体現代語訳(まとめ)
太宗は家臣に「歴代に忠臣はいるが、隋には誰が忠臣だったか」と問い、王珪は太常丞・元善や虎賁郎中・独孤某の忠死を挙げた。太宗はさらに屈突通の忠義と誠実さを語り、これを高く評価した。彼の忠誠心はまさに範とすべきものであり、太宗はそれを記憶し、隋末に直諫して殺された者の遺族の調査を命じた。
6. 解釈と現代的意義
この一節は「忠誠とは敗者にも宿る」というテーマを貫いています。とくに屈突通のような、職務を全うし国に殉じた人物の姿勢は、どれほどの境遇にあっても節義を失わないあり方として称揚されています。太宗は過去の敵であっても、義を重んじる者には寛容と評価を与える姿勢を明確にしています。
7. ビジネスにおける解釈と適用
- 忠誠と責任感の表明:責任ある立場にある者は、結果がどうであれ、最善を尽くし、その行動で忠誠を示すべきである。
- 過去の功績者・忠義者の正当な評価:たとえ敗れた組織に属していても、その中にあった真摯な姿勢を忘れてはならない。
- 他者の行動から学びを得る姿勢:過去の忠臣の例を引き、現代に生かそうとする太宗の姿勢は、組織文化における「価値の継承」を表している。
8. ビジネス用の心得タイトル
「忠を尽くし、節を守る ― 真の責任は逆境でこそ試される」
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