貞観十二年、太宗は中書侍郎(ちゅうしょじろう)の**岑文本(しん・ぶんほん)**に問いかけた。
「南朝の梁や陳に仕えた臣下のなかで、称えるべき人物はいるか。
そして、今なおその子弟のうちで、朝廷に召し出すにふさわしい者はいないだろうか」
これに対して岑文本は、南朝陳末の忠臣である**袁憲(えん・けん)**とその一族を挙げた。
忠臣・袁憲の最期
隋の軍が建康(現在の南京)に攻め込んだとき、
多くの官僚や衛兵たちは命惜しさに逃げ去った。
しかし、尚書僕射(政府の副長官)であった袁憲だけは逃げず、
恐怖に怯える皇帝のそばを最後まで離れなかった。
この忠誠により、彼の名は「忠烈の士」として語り継がれることとなった。
子らも父の精神を継ぐ
袁憲の子・**袁承家(えん・しょうか)**は、国子監の副学長(国子司業)を務めていた。
時に、王世充が隋からの禅譲を受けようとし、家臣たちに賛同の上表文に署名を求めたが、
袁承家だけは病を理由に署名を拒否し、屈しなかった。
また、弟の**袁承序(えん・しょうじょ)**は、地方官として清廉潔白を保ち、
まさに一族の忠義の「風(ふう)」を受け継いでいると岑文本は太宗に報告した。
太宗の対応
この忠義を高く評価した太宗は、袁承序を呼び出して晋王(太宗の息子)に仕える側近に任命。
さらに、経書の講読を担当する「侍読」とし、後には弘文館学士という文人・学問の最高位に抜擢した。
引用(ふりがな付き)
「父子(ふし)忠烈(ちゅうれつ)と称(しょう)すに足(た)る」
「貞雅(ていが)にして操(みさお)あり、実(まこと)に先風(せんぷう)を継(つ)ぐ」
注釈
- 袁憲(えん・けん):南朝陳の尚書僕射。都の陥落時にも皇帝に殉じた忠臣。
- 袁承家(えん・しょうか):袁憲の子。国子監の副学長を務め、王世充の禅譲に加担しなかった。
- 袁承序(えん・しょうじょ):袁憲の次男。貞廉な地方官として名を残し、後に晋王の教育係・弘文館学士となった。
- 弘文館学士(こうぶんかん がくし):門下省に属する学問所の学者で、知識人・政策顧問・教育者として重用された。
パーマリンク(英語スラッグ)
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「忠義は代々受け継がれる」という本章の本質を簡潔に伝えるスラッグです。
代案として、sons-of-a-loyalist
(忠臣の子たち)、legacy-of-fidelity
(忠誠の遺産)などもご提案可能です。
この章は、「忠義は血筋と育ちによって継承されうる」という価値観が語られています。
また、太宗のように、過去の忠義を掘り起こして賞することこそ、現代に忠臣を育てる道であるという統治理念も鮮明です。
ありがとうございます。
ご指定の『貞観政要』巻一「貞観十二年」の一節について、以下の通り、逐語訳・用語解説・全体訳・解釈・ビジネス応用まで丁寧に整理いたします。
『貞観政要』巻一「貞観十二年」より
1. 原文
貞觀十二年、太宗謂中書侍郞岑文本曰「梁・陳名臣、有誰可稱。復有子弟堪招引否」。
文本奏言「隋師入陳、百司奔散、莫有留者、惟書僕射袁 獨在其主之傍。王世充將受隋禪、羣僚表 勸 、袁子國子司業承家、託疾獨不署名。此之父子、足稱忠烈。承家弟承序、今爲建昌令。 貞雅操、實繼先風」。
由是召拜晉王友、 令侍讀、 授弘文館學士。
2. 書き下し文
貞観十二年、太宗、中書侍郎・岑文本に謂(い)いて曰く
「梁・陳の名臣にして、称(たた)うべき者は誰ぞや。また、子弟にして招き引くに堪(た)うる者はあるか」。
文本奏して言う
「隋の軍、陳に入りしとき、百司は奔(はし)り散じて、留まる者莫(な)し。ただ書僕射・袁某(えんぼう)のみ、その主の傍(かたわら)に独(ひと)り在り。
王世充、隋に禅(ゆず)らんとするにあたり、群僚は表を作りて勧む。袁の子・国子司業の承家、疾(やまい)を託(かこ)ちて独り名を署(しょ)せず。
この父子、忠烈と称するに足る。承家の弟・承序、今は建昌の令たり。貞雅の操(みさお)、実に先風を継ぐ」。
ここによりて召して晋王の友と為し、令して侍読となし、弘文館学士を授く。
3. 現代語訳(逐語・一文ずつ)
- 貞観十二年、太宗は中書侍郎の岑文本に問うた。
→ 貞観十二年(638年)、太宗(李世民)は中書侍郎・岑文本にこう尋ねた。 - 「梁や陳(※南朝)において、称賛すべき名臣は誰か? その子孫で、今招くにふさわしい人物はいるか?」
→ 名臣の子弟で、現在登用すべき者はいるか、と尋ねた。 - 岑文本は奏して言った。
→ 岑文本は奏上してこう述べた。 - 「隋の軍が陳に侵攻した際、官僚たちは皆逃げ散ったが、書僕射・袁某だけが最後まで主君のそばにいた。」
→ 陳の崩壊時にも主君を見捨てなかった袁某の忠義を称えている。 - 「また、王世充が隋に禅譲しようとした際、群臣たちは賛成の表を出したが、袁某の子・承家だけは病気を理由に名を連ねなかった。」
→ 卑屈な賛同を拒んだ承家の節義も称賛されている。 - 「この父子は忠義に厚く、称えるに足る。」
→ 忠誠と節義を貫いた模範的な家族として紹介。 - 「その承家の弟・承序は、今は建昌の県令であり、品行方正で先人の徳をよく受け継いでいる。」
→ 家風が代々継がれていることを高く評価。 - この話に基づき、太宗は承序を召して晋王の友とし、侍読に任じ、弘文館学士に任命した。
4. 用語解説
- 貞観十二年:西暦638年、唐の太宗の治世。
- 梁・陳:南朝最後の王朝(陳は隋に滅ぼされた)。
- 書僕射:中書令に次ぐ高官。ここでは陳朝の袁某を指す。
- 王世充:隋末の群雄。自ら皇帝を称し、後に隋へ形式的に禅譲した。
- 国子司業:国子監の教官で、副学長のような役職。
- 建昌令:建昌県の長官。
- 晋王友・侍読・弘文館学士:いずれも皇太子教育や文教を担う高位の職務。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
貞観十二年、太宗は中書侍郎の岑文本に「南朝の梁や陳で称賛に値する名臣は誰か。また、その子孫で今登用に値する者はいるか」と尋ねた。
岑文本は「隋の軍が陳に侵攻した際、百官が逃亡する中で、ただ袁某だけが最後まで主君のそばに仕えていました。さらにその子・承家は、王世充が隋に政権を譲ろうとしたとき、病と称して名を連ねず、節義を貫きました。この父子は忠義の鑑といえましょう。
そして承家の弟・承序は現在、建昌県の県令を務めており、その品格と誠実さは父祖の徳を受け継いでいます」と述べた。
これを聞いた太宗は承序を召し、晋王の側近(友)とし、皇太子の侍読、そして弘文館学士に任命した。
6. 解釈と現代的意義
この章句は、忠義と節操の家風が三代にわたって評価される過程を描いており、「個の徳」ではなく「家としての伝統と行動」が重視されている点が特徴的です。
また、太宗の問いかけは、人材の選定において「過去の功績・家風」を重視し、未来への継承を意識したものといえます。これは単なる血筋ではなく、“理念・行動を継承する一族”への信頼を示す政治的な姿勢でもあります。
7. ビジネスにおける解釈と適用
- 「誠実さと責任感は、逃げずに踏みとどまる者によって証明される」
→ 危機の場面で“逃げずに残った者”にこそ、真の責任感と忠誠がある。リーダーはそうした人物を見逃さず評価すべき。 - 「正しい行動を貫く姿勢は、静かな“不署名”にも表れる」
→ 周囲が忖度的に動く中、あえて加担せず“署名を拒む”姿勢は、現代においても重要な意思表示である。 - 「組織文化は、“人を育てる”のではなく、“人を選ぶ”ことから始まる」
→ 単なるスキルではなく、家風・人柄・過去の行動履歴を総合的に見て登用する姿勢が、強いチーム文化を形成する。 - 「忠義と節義は、危機の中でこそ際立つ」
→ 平時では見えにくい誠実さは、有事・転機においてこそ試され、評価される。
8. ビジネス用の心得タイトル
「逃げず、従わず、貫く──有事にこそ見える“忠義の家風”」
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