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敵であっても、忠義ある者は赦され、重んじられる

玄武門の変において、隠太子・李建成と斉王・李元吉に仕えていた馮立と謝叔方は、敵対する立場でありながらも、それぞれの主君への忠義を貫いた。
唐太宗・李世民は、その忠義を正当に評価し、敵であったにもかかわらず彼らを赦し、重用した。

馮立は李建成の親衛隊長として忠誠を尽くし、太子の死後も単身で兵を率い玄武門に攻め込み、太宗配下の将を討ち取った。
戦後に出頭して処罰を求めたが、太宗はその涙ながらの忠義に心を打たれ、罪を許して左屯衛中郎将に任じた。
その後、突厥の侵攻にあたっても果敢に奮戦し、大いなる戦果を挙げた。

また謝叔方は、李元吉に従い秦王軍と戦い、敬君弘と呂衡を討ち取ったが、主君の死を知るとその首に対して馬を下り、涙しながら別れを告げた。
翌日、自ら出頭した謝叔方に対し、太宗は「義士である」と賞して赦免し、右翊衛郎将に任命した。

これは「忠義の本質は主君に対する一途な誠である」という太宗の哲学の現れである。
敵であっても、誠を尽くした者は咎めず、かえって重んじる。その姿勢が太宗の度量の広さと徳治の精神を象徴している。


引用(ふりがな付き)

「豈(あ)に生(い)けるにその恩(おん)を受(う)けて、死(し)するにその難(なん)を免(まぬが)れんや」
「立(りつ)、出身(しゅっしん)して主(しゅ)に事(つか)え、期(き)するは命(いのち)を効(こう)するにあり。戦(たたか)うべき日(ひ)に、敢(あ)えて憚(はばか)ること無し」
「義士(ぎし)なり」


注釈

  • 馮立(ふうりつ):李建成の親衛隊長。忠義を尽くして戦い、のちに太宗に仕えて戦功を挙げる。
  • 謝叔方(しゃ・しゅくほう):李元吉の配下。敵将を討った後、主君の死に涙して別れを告げた。
  • 敬君弘・呂衡:ともに秦王府(李世民)側の将。玄武門の変において命を落とす。
  • 尉遅敬徳(うっち・けいとく):秦王の護軍で、元吉の首を討ち取り、それをもって敵兵を制した猛将。
  • 左屯衛中郎将/右翊衛郎将:唐の宿衛軍の中枢を担う高官。いずれも信頼される者に与えられた地位。

以下は『貞観政要』巻一に記された馮立および謝叔方に関する一節「貞観初年 玄武門の変後の忠義と赦免」に関する整理です。


目次

『貞観政要』巻一「馮立・謝叔方の忠誠と太宗の寛大なる処置」


1. 原文

馮立、武德中爲東宮属官、甚被隱太子親信。太子之死也、左右多潰散、立歎曰、「豈有生受其恩、而死不赴其難」。於是領兵犯玄武門、苦戰、殺屯營將軍敬君弘。謂其徒曰、「可以報太子矣」。遂解兵遁於野。

俄而來降、太宗數之曰、「汝昨者出兵來戰、大殺傷吾兵、將何以待死」。立飮泣而對曰、「立出身事主、期之效命、當戰之日、無所憚」。因歔欷悲不自勝。太宗慰勉之、授左屯衞中郞將。立謂其親曰、「逢莫大之恩幸而獲免、當以死奉答」。

未幾、突厥至便橋。立率數百騎與虜戰於咸陽、殺獲甚衆、賊向皆披靡。太宗聞而嘉歎之。

時有齊王元吉府左車騎謝叔方以府兵與立合軍戰、曾殺敬君弘・中郞將呂衡、王師不振。秦府護軍尉尉遲敬德乃持元吉首以示之、叔方下馬號泣、拜辭而遁。明日出首、太宗曰、「義士也」。命釋之、授右翊衞郞將。


2. 書き下し文

馮立、武徳中に東宮の属官となり、甚だ隱太子(承乾太子)の親信を受く。太子の死するや、左右多く潰散す。立歎じて曰く、「豈に生においてその恩を受けて、死においてその難に赴かざることあらんや」と。於是兵を率いて玄武門を攻め、苦戦して屯営将軍敬君弘を殺す。其の徒に謂いて曰く、「もって太子に報ゆべし」と。遂に兵を解いて野に遁る。

俄かにして来降し、太宗これを責めて曰く、「汝、昨者兵を出して来たりて戦い、我が兵を大いに殺傷せしが、将た何を以てして死を待つか」と。立、飲泣して対えて曰く、「立、身を出して主に事え、之が為に命を效すを期す。戦うの日に、憚る所無し」と。因りて歔欷して悲しみ自勝えず。太宗これを慰勉して、左屯衛中郎将に授く。立、其の親に謂いて曰く、「莫大の恩に遇い、幸いにして免れ得たり。当に死を以て報答すべし」と。

未だ幾ばくもあらずして、突厥便橋に至る。立、数百騎を率いて虜と咸陽に戦い、殺獲甚だ多く、賊向う者皆披靡す。太宗これを聞いて嘉歎す。

時に齊王元吉の府左車騎、謝叔方、府兵を以て立と合軍して戦い、曾て敬君弘および中郎将呂衡を殺し、王師振わず。秦府護軍尉尉遲敬德、乃ち元吉の首を持してこれに示す。叔方、馬を下りて号泣し、拝辞して遁る。明日首を出だす。太宗曰く、「義士なり」。命じてこれを釈し、右翊衛郎将に授く。


3. 現代語訳(逐語/一文ずつ)

  • 馮立は武徳年間に東宮に仕え、隠太子(太子・李建成)の深い信頼を受けていた。
  • 太子が殺害されたとき、多くの部下は逃散したが、馮立は「生前に恩を受けていながら、死に際して難に赴かないわけにはいかない」と嘆いた。
  • そこで兵を率いて玄武門に突入し、激しい戦いの末に屯営将軍・敬君弘を殺害した。
  • そして部下たちに「これで太子に報いることができた」と言って、兵を解散し山野に身を隠した。
  • しばらくして馮立が降伏すると、太宗は「昨日の戦で我が兵に大きな損害を与えたが、どう責任を取るつもりか」と詰問した。
  • 馮立は涙を流しながら「自ら望んで主君に仕え、命を捧げる覚悟であったので、戦に臨んでためらいはなかった」と答えた。
  • 太宗は彼の忠義に感じ入ってこれを許し、左屯衛中郎将に任じた。
  • 馮立は親族に「計り知れない恩に遇った以上、命をもって報いねばならぬ」と語った。
  • まもなく突厥が便橋に侵入した際、馮立は数百の騎兵を率いて咸陽で敵と戦い、大戦果を挙げた。
  • その勇戦ぶりを太宗は称賛した。
  • また、かつて元吉(太宗の弟)配下の謝叔方も同様に玄武門の変で馮立とともに戦い、敬君弘と呂衡を討ち取った。
  • 秦府護軍・尉遲敬德が元吉の首を見せると、謝叔方は馬を下りて号泣し、その場から退いた。
  • 翌日、自ら出頭した彼に対して、太宗は「義士である」と言い、罪を許し、右翊衛郎将に任じた。

4. 用語解説

用語解説
玄武門の変西暦626年、太宗(李世民)が兄・李建成および弟・李元吉を玄武門で討った政変。
左屯衛中郎将/右翊衛郎将唐代の親衛軍の将官職。中郎将は高位の武官職であり、軍の実務指揮にあたる。
飲泣(いんきゅう)涙を飲むようにして泣くこと。
歔欷(きょき)声を抑えながらすすり泣くさま。
披靡(ひび)敵がばらばらに逃げ散るさま。

5. 全体の現代語訳(まとめ)

馮立はかつて東宮に仕え、太子・李建成の信任を受けていた。太子が殺された後も恩義を忘れず、兵を率いて玄武門に突撃し奮戦。やがて敗走して降伏するも、太宗は彼の忠義を認めて許し、将軍職を与えた。その後、馮立は突厥との戦いで大戦果を挙げ、その功を太宗も称賛した。

同様に、かつて太宗の弟・元吉に仕えていた謝叔方も戦いに加わっていたが、後に降伏。太宗は彼も義士として赦免し、将官に取り立てた。


6. 解釈と現代的意義

このエピソードには以下のような教訓が込められています:

  • 忠誠を貫いた者への敬意:太宗は敵対していた者でも忠義を貫いたことに感動し、報復ではなく登用で報いた。
  • 勝者の寛容さが組織を強くする:政敵を赦すことで太宗は新たな忠臣を得、国家の安定に繋がった。
  • 人の価値は一時の敵味方で決まらない:状況が変わっても、その人の本質と志を見極めれば、新たな関係を築くことができる。

7. ビジネスにおける解釈と適用

  • 忠義・責任感のある人材は再評価すべき:一度の衝突で切り捨てず、本質的な価値や姿勢を見極めることで、再び信頼できる人材として活用できる。
  • 過去の対立を超えた登用の重要性:かつての競合や対立者でも、その能力と誠実さを評価して協働に転じることは、企業の発展に大きな力となる。
  • トップの度量が組織文化を決定する:トップ自らが寛大であることで、部下もまた寛容かつ忠実に振る舞う文化が育つ。

8. ビジネス用心得タイトル

「忠義を見抜く眼と、敵を味方に変える寛容の力」


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