—— 外見や欲望ばかりに流されず、内なる徳を愛せよ
孔子は、深いため息とともにこう嘆いた。
「困ったものだ。私はいまだかつて、色(いろ)を好むのと同じくらい熱心に徳を求める人を見たことがない」と。
“色”とは、単なる美しさや快楽、表面的な魅力を指す。
人はしばしば、そうした感覚的な快楽や目に見えるものに心を奪われがちだ。
一方で、**「徳」**とは、思いやり・誠実・礼節・義といった、人間としての内面的価値。
それを学び、育て、高めることには時間も努力も必要だが、
そこにこそ人としての本質が宿る。
孔子は、人々がもっと徳を愛するようになってほしいと切に願っていた。
現代にも通じるこの言葉は、「何を美しいと思うか」に、私たちの生き方が問われていることを教えてくれる。
この章句は、私たちの価値観を映す鏡でもあります。
何を「美しい」と思い、何に「憧れる」のか——その感性が、人生の質を決めていきます。
原文
子曰、已矣乎、吾未見好徳如好色者也。
書き下し文
子(し)曰(いわ)く、已(や)んぬるかな。吾(われ)は未(いま)だ徳(とく)を好(この)むこと、色(いろ)を好むが如(ごと)き者を見(み)ざるなり。
現代語訳(逐語/一文ずつ)
- 「子曰く、已んぬるかな」
→ 孔子は言った。「もうだめだな、情けないことだ」。 - 「吾は未だ徳を好むこと、色を好むが如き者を見ざるなり」
→ 「私は今まで、徳を愛することを、異性(あるいは色欲)を愛するように強く求める人間を見たことがない」。
用語解説
- 已矣乎(やんぬるかな):嘆きや諦め、失望を表す言葉。「もう終わりだ」「やれやれ」といった心情を含む。
- 好徳(こうとく):道徳・人格的完成を愛し求めること。
- 好色(こうしょく):色欲、異性への強い執着。特に肉体的な欲望の象徴。
- 如(ごとし):〜と同じくらいに。程度や熱意の比較に用いられる。
全体の現代語訳(まとめ)
孔子はこう嘆いた:
「まったく情けない。
私はこれまで、徳を好むことを、色欲を好むのと同じくらい熱心に求める人を、見たことがない」。
解釈と現代的意義
この章句は、「人は本当に徳を求めているのか?」という孔子の痛烈な人間批評です。
- 人間は美しさや快楽などの欲望には熱心なのに、道徳的成長や人間性の完成といった**「徳」には冷淡**である。
- 孔子は、「徳を愛する」ことが人間としての最重要課題であると位置づけ、それに対する熱意の欠如を嘆いている。
- これは単なる色欲批判ではなく、価値の優先順位が間違っていることへの警鐘です。
ビジネスにおける解釈と適用
◆ 「即物的欲望>人格的成長 の優先は危うい」
報酬、評価、立場ばかりに執着し、「信頼される人間になる」「誠実である」ことを軽視すれば、長期的な信頼も成果も失う。
◆ 「徳を“本気で”求める人材こそ、組織の宝」
一見地味で評価されにくくても、常に誠実であり、まっすぐな行動をとる人が組織文化を支える核となる。
◆ 「人の本気は“態度”に現れる」
色を好むように徳を好む──とは、表面的ではなく、情熱・時間・努力を惜しまない本気の姿勢であること。
◆ 「“どう見られるか”より“どう在るか”」
外見・印象・表現力ばかりを磨き、「中身=徳」が置き去りになる風潮への批判としても現代的示唆が深い。
まとめ
「徳を欲する情熱こそ、人としての本気」
この章句は、私たちに「あなたは“徳”をどれほど本気で求めているか?」という深い自己問いかけを突きつけます。
評価軸が外見・利益・数字に傾きがちな現代において、「人格を磨く情熱」の大切さを再認識させてくれる珠玉の一句です。
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