人の世を離れるより、人の世と向き合いたい
隠者とされる長沮(ちょうそ)と桀(けつ)が並んで畑を耕していたところを、孔子と弟子の子路が通りかかった。
孔子は子路に川の渡し場の場所を尋ねるよう命じた。
長沮に尋ねると、彼は「馬車で手綱を取っているのは誰だ」と聞く。
子路が「孔丘です」と答えると、長沮は「ならば、渡し場など知っているはずだ」と皮肉を言って教えてくれなかった。
次に桀に尋ねると、桀は「お前は誰だ」と問い、子路が「仲由です」と答えると、「あの孔丘の弟子か」と確認し、こう言った。
「川の水が滔々と流れるように、天下も流れており、誰にも変えられない。
お前の先生は誰とともにそれを変えるというのか。
世間を避けて生きる我々のような者に従った方がよほどよい。」
そう言うと、桀は言葉を打ち切り、黙々と畑に土をかけ続けた。
子路が一連のやり取りを孔子に報告すると、孔子は沈んだ面持ちでこう語った。
「鳥や獣と共に暮らすことなどできようか。
私が人として生まれたからには、人の世に生きる者たちと共に歩むしかない。
天下にすでに道が通っているのなら、私が東奔西走して世を変える必要などない。
だが、今、道が失われているからこそ、私は歩き続けているのだ。」
「楚(そ)の狂(きょう)、長沮(ちょうそ)と桀(けつ)、耦(ぐう)して耕(たがや)す。孔子(こうし)之(これ)を過(よぎ)り、子路(しろ)をして津(しん)を問(と)わしむ。…孔子、憮然(ぶぜん)として曰(い)わく、鳥(とり)と獣(けもの)とは与(とも)に群(ぐん)を同(おな)じくすべからず。吾(われ)は斯(こ)の人の徒(ともがら)と与(とも)にするに非(あら)ずして、誰(たれ)と与にせん。天下(てんか)に道(みち)有(あ)らば、丘(きゅう)は与(とも)に易(か)えざるなり。」
仁とは、あきらめずに人とともに歩むことにある。
語句注釈
- 長沮と桀:世捨て人のように生きる隠者たち。世の中を変えようとはせず、静かに畑を耕すことを選んでいる。
- 津(しん):川を渡るための渡し場。
- 滔滔(とうとう)たる者は、天下皆是なり:流れる水のように、天下もその流れに任されているという諦念の表現。
- 誰か以て之に易えん:「誰がこれを変えられようか」と世の中を変えることの不可能性を示す言葉。
- 辟人(へきじん)・辟世(へきせい):「人を避ける」「世を避ける」。前者は俗人を避け、後者は世間そのものを避ける立場を指す。
- 憮然(ぶぜん):失望や落胆、あるいは複雑な感情に沈むさま。
パーマリンク(スラッグ)案
live-with-the-world
(世とともに生きる)not-birds-or-beasts
(人として生きる)cannot-change-alone
(一人では変えられないが、共に歩む)
孔子は理想が遠くても、現実の人々と向き合いながら道を説き続けました。
その生き方こそが、仁の根本にある「ともに生きる」という姿勢を物語っています。
1. 原文
長沮桀溺耦而耕、孔子過之、使子路問津焉…(以下略)
2. 書き下し文(全文)
長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)、耦(ぐう)して耕(たがや)す。孔子(こうし)之(これ)を過(よぎ)り、子路(しろ)をして津(しん)を問わしむ。長沮曰(い)わく、「夫(そ)れ輿(くるま)を執(と)る者は誰(たれ)と為(な)す」。子路曰く、「孔丘(こうきゅう)と為す」。曰く、「是(こ)れ魯(ろ)の孔丘か」。曰く、「是れなり」。曰く、「是ならば津を知れり」。
桀溺に問う。桀溺曰く、「子(し)は誰と為す」。曰く、「仲由(ちゅうゆう)と為す」。曰く、「是れ魯の孔丘の徒(ともがら)か」。対(こた)えて曰く、「然(しか)り」。曰く、「滔滔(とうとう)たる者は、天下皆是(これ)なり。而(しか)して誰(たれ)か以(もっ)て之(これ)に易(か)えん。且(か)つ而(なんじ)は其の人を辟(さ)くるの士に従(したが)わんよりは、豈(あ)に世を辟くるの士に従うに若(し)かんや」。耰(う)して輟(や)めず。
子路行(ゆ)きて以(もっ)て告ぐ。夫子(ふうし)憮然(ぶぜん)として曰く、「鳥獣(ちょうじゅう)は与(とも)に群を同(おな)じくすべからず。吾(われ)は斯(こ)の人の徒(ともがら)に非(あら)ずして誰(たれ)と与(とも)にせん。天下に道有(みちあ)らば、丘(きゅう)は与に易(か)えざるなり」。
3. 現代語訳(逐語・一文ずつ)
- 「長沮と桀溺、耦して耕す」
→ 長沮と桀溺という隠者が、一緒に畑を耕していた。 - 「孔子これを過り、子路をして津を問わしむ」
→ 孔子がその前を通りかかり、道(川の渡し場)を尋ねるよう子路に命じた。 - 長沮「車を引く人は誰か」→子路「孔丘です」→「それなら津を知っているはずだ」
→ 道を知らないわけがない=理想を説く孔子なら世の渡り方を知っているべきだという皮肉。 - 桀溺「子は誰か」→子路「仲由(子路)」→「孔丘の弟子か」「然り」
→ さらに批判が続く。 - 桀溺「天下は滔滔(流れに)満ちている。誰がそれを変えられるのか」
→ 天下はすでに乱れていて、抗っても無駄だ。 - 「人(為政者)を避ける人より、世(全体)を避ける人に従え」
→ 不正な為政者だけを避けるのではなく、腐った世の中全体を避けるのが賢明という主張。 - 子路が報告すると、孔子は憮然として語る:
→ 「私は鳥獣とは違う、人と共に生きる者だ。もし道が天下にあるなら、私は決して道を変えない。」
4. 用語解説
- 長沮・桀溺:世を捨てた隠者たち。政治から離れ、自然と共に生きる道を選んだ人物。
- 耦(ぐう)して耕す:二人で並んで農作業をすること。
- 津(しん):渡し場、渡河ポイント。
- 辟人・辟世:人を避ける(為政者のみを避ける)/世を避ける(俗世そのものを否定する)。
- 耰(う):種をまく行為。
- 輟(や)めず:手を止めない。
- 憮然(ぶぜん):落胆しつつも、言い知れぬ気持ちを抱くこと。
- 鳥獣不可与同群:人間は社会的存在であり、孤立していては人の道を行えないという意味。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
長沮と桀溺という隠者が田畑を耕していた。孔子は道を尋ねるために弟子の子路を遣わした。
長沮は「車を引いている者(孔子)は自分で世の渡り方を知っているだろう」と皮肉り、
桀溺は「天下は乱れきっていて、誰もこれを変えられない」と嘆いた。
さらに彼は「政治家を避けるより、世の中全体を避ける者のほうが優れている」と説いた。
子路がこのやり取りを孔子に報告すると、孔子はしばし黙しつつこう言った:
「人間は鳥獣と違って、社会の中で生きるもの。私がこの世において誰とも関わらないなら、誰と共に歩むというのか。
たとえ天下に道が失われていても、私は正道を貫いて生きる。」
6. 解釈と現代的意義
この章句は、理想主義 vs.現実逃避、社会参加 vs.世捨てという対立を描いています。
- 長沮・桀溺は現実を諦め、「沈黙による批判」を選んだ。
- 孔子は社会から逃げず、「理想を説き、関与すること」で変革を目指す。
この対比は、現代にも通じる普遍的な問いを提示しています:
- 壊れた世界にどう関わるか?
- 変えられないから関わらないのか、変えるために関わるのか?
孔子は「たとえ報われなくても、人間である以上、社会と向き合うべきだ」と説きます。
7. ビジネスにおける解釈と適用
「組織が腐っているから離れるか、関わって変えるか」
- 隠者の選択:沈黙という抵抗
→ 組織が不正や理不尽で満ちているとき、「距離を置く」「退職する」も正当な行動。 - 孔子の選択:関わることそのものが使命
→ 変える力がある者は、組織と社会に関わり、諦めずに道を説き続けるべき。 - 「滔滔者天下皆是」=不正は広がっている
→ だからこそ、一人でも「正道」を示すリーダーが必要。
組織人へのメッセージ
- リーダーは、組織に失望しても希望を示す存在であれ。
- 「孤立」よりも「誠実な関与」が、変革を生む第一歩。
8. ビジネス用の心得タイトル
「世を嘆くより、正道を貫け──沈黙より関与が変革を生む」
この章句は、時代を問わず、社会的使命と個人の信念のあり方を問うものです。
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