孔子が病に倒れたとき、弟子の子路は心配し、神に祈ろうと申し出た。
それに対して孔子はまず、「そうした祈りの習慣に、何か典拠があるのか」と問う。
子路は、『誄(るい)』という死者をしのぶ文の中に「天地の神に祈る」とあることを引き合いに出すと、孔子は静かにこう答える――
「そういう祈りなら、私はずっと前から日々行ってきた。いまさら改めてする必要はない」と。
この言葉には、「困ったときだけ神頼みをするのではなく、ふだんの生き方や行いそのものが祈りであるべき」という、孔子の一貫した姿勢が表れている。
原文・ふりがな付き引用
子(し)、疾病(しっぺい)す。子路(しろ)、禱(いの)らんと請(こ)う。
子(し)曰(い)く、「諸(これ)有(あ)りや」。
子路(しろ)対(こた)えて曰(い)く、「之(これ)有(あ)り。誄(るい)に曰(い)わく、爾(なんじ)を上下(しょうか)の神祇(しんぎ)に禱(いの)る」と。
子(し)曰(い)く、「丘(きゅう)の禱(いの)るや、久(ひさ)し」。
注釈
- 禱(いの)る … 神に祈ること。ここでは回復を願って神に頼る行為。
- 誄(るい) … 故人の生前の徳や行動をしのんで語る文章。「汝を神に祈る」と記されている文例。
- 丘の禱るや久し … 私(丘=孔子)はすでに日頃から祈ってきた、という意味。生き方そのものに誠実さがあることを示す。
1. 原文
子疾病、子路請禱。子曰、有諸。子路對曰、有之。誄曰、禱爾于上下神祇。子曰、丘之禱久矣。
2. 書き下し文
子(し)、疾病(しっぺい)す。子路(しろ)、禱(いの)らんと請(こ)う。
子曰(い)わく、諸(これ)有(あ)りや。
子路、対(こた)えて曰く、之(これ)有り。誄(るい)に曰(い)わく、「爾(なんじ)を上下の神祇(しんぎ)に禱(いの)る」と。
子曰く、丘(きゅう)の禱(いの)るや久し。
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 「子、疾病す」
→ 孔子が病気になった。 - 「子路、禱らんと請う」
→ 弟子の子路が、「先生のために神に祈ってよいですか」と願い出た。 - 「子曰く、諸れ有りや」
→ 孔子は「そういうこと(神に祈ること)はあるのか?」と尋ねた。 - 「子路対えて曰く、之有り。誄に曰う、爾を上下の神祇に禱ると」
→ 子路は答えた。「あります。弔文(誄)にも『あなたのために天と地の神々に祈った』と書かれています。」 - 「子曰く、丘の禱るや久し」
→ 孔子は言った。「丘(私=孔子)は、もう長いこと“祈って”いるのだ。」
4. 用語解説
- 疾病(しっぺい):病気、重い病。
- 禱(いのり):神への祈願。特に病気平癒や災厄回避を目的とする。
- 誄(るい):死者の徳を称える文(弔辞)。そこに記される祈りの形式を引用している。
- 上下の神祇(しんぎ):天の神と地の神。天地万物の支配者。儒教でも形式的には重視された存在。
- 丘(きゅう):孔子の本名。自分を謙遜して呼ぶ時に用いる。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
孔子が重い病にかかったとき、弟子の子路が「先生のために神に祈ってもよいでしょうか」と申し出た。
孔子は「そんなことがあるのか?」と尋ねると、子路は「弔文にも“天地の神々に祈る”とあります」と答えた。
すると孔子は言った──「私はもう長いこと、祈り続けてきているのだ。」
6. 解釈と現代的意義
この章句は、孔子の「祈り」に対する独特の解釈と人生観を示しています。
- 一見すると形式的な祈りを拒んでいるようだが、実は**「行動そのものが祈りである」**という深い思想が込められている。
- 孔子にとっての「禱る」とは、日々の誠実な実践、学び、教えを通じて、天(自然の理)に恥じぬ生き方をすること。
- 言葉で祈るのではなく、人格と行動を通じて祈ってきた=すでに“生き方そのものが祈り”だったとする態度。
7. ビジネスにおける解釈と適用
■「祈りとは、日々の姿勢の中にある」
──願うだけでなく、行動で信念を体現することこそ、最も強い祈りである。
■「形式より、日々の誠実な積み重ねが本質」
──神頼みや一時のパフォーマンスではなく、日常の姿勢が結果を導く。
■「理念に忠実な行動が、“見えない支え”となる」
──誠実に働き、正しいことを継続する人は、運や天命にも恥じない支援を得る。
■「本物の信仰とは、言葉ではなく実践に宿る」
──企業理念やビジョンも、掲げるだけではなく、日々の行動が“祈りの体現”であるべき。
8. ビジネス用心得タイトル
「祈りは、行いにあらわれる──誠実な日々が、天に通ず」
この章句は、リーダーの人格、行動哲学、理念経営、信頼形成において深い示唆を与えるものです。
「祈る」のではなく、「祈っているように生きる」こと──これこそが孔子の教えの核心です。
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