――とらわれを捨てて、軽やかに生きる知恵
人の心や世間の風潮(世態)は、つねに“倐忽(しゅくこつ)”――目まぐるしく変化し続ける。
だからこそ、何かを「これこそ真実だ」とあまりにも強く思い込むことは、むしろ苦しみの原因になる。
北宋の儒者・**邵堯夫(邵雍)**はこう言っている:
「かつて“我”だったものは、今日になれば“彼”になっている。
今日の“我”は、未来には誰になっているのか、誰にもわからない」
これは、「自我」すらも、絶対的なものではないという洞察である。
人も時代も、あまりに速く変わっていく。
だからこそ私たちも、
過去や自分自身、他人や社会に対して固執せず、変化を前提にゆるやかに見ていけば――
心のわだかまりや葛藤(=胸中の“罥”)も自然に解けていく。
引用(ふりがな付き)
人情(にんじょう)・世態(せたい)は倐忽万端(しゅくこつばんたん)、
宜(よろ)しく認(みと)め得(う)べくして太(はなは)だ真(しん)なるべからず。
堯夫(ぎょうふ)云(い)う、「昔日(せきじつ)、我(われ)と云(い)いし所(ところ)は、而今(じこん)却(かえ)って是(こ)れ伊(かれ)。
知(し)らず今日(こんにち)の我(われ)は、又(また)後来(こうらい)の誰(たれ)にか属(ぞく)せん」。
人(ひと)常(つね)に是(こ)の観(かん)を作(な)さば、便(すなわ)ち胸中(きょうちゅう)の罥(わだかま)りを解却(かいきゃく)すべし。
注釈
- 倐忽万端(しゅくこつばんたん):人の心も世間の有り様も、あっという間にさまざまに変わってしまうこと。
- 堯夫(ぎょうふ):北宋の儒学者・邵雍(しょうよう)の字。哲理的な詩文でも知られる。
- 胸中の罥(けん/わだかまり):心のもつれ、執着、悩みや葛藤のこと。
- 伊(かれ):彼、他人。つまり、「自分だと思っていたものが、他人のようになってしまう」という意。
関連思想と補足
- 仏教の「諸行無常」や、道教の「変化こそ自然」思想とも通じる内容であり、
変化するものに執着せず、心を柔軟に保つことの大切さを説いている。 - 『荘子』にも、「胡蝶の夢」のように、「我」と「彼」の境目が曖昧であるという思想が登場し、
自我への執着が幻想であることを深く掘り下げている。 - 現代においても、社会や人間関係の変化が速い時代にあって、
一つの立場や他者の評価に固執しないことが、心の健やかさを保つ鍵となっている。
原文
人世態倐忽萬端、不宜得太眞。
堯夫云、昔日云我、而今却是伊。
不知今日我、又屬後來誰。
人常作是觀、可解却胸中罥矣。
書き下し文
人情・世態は倐忽(しゅくこつ)として万端(ばんたん)、
宜(よろ)しく認め得て、太(はなは)だ真(しん)たるべからず。
堯夫(ぎょうふ)云(い)わく、「昔日(せきじつ)我と云いし所は、而今(じこん)却(かえ)って是(こ)れ伊(い)なり。
知らず、今日の我は、又た後来(こうらい)の誰にか属せん」。
人、常に是の観(かん)を作(な)さば、便(すなわ)ち胸中の罥(けん)を解却(げきゃく)すべし。
現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
「人情・世態は倐忽として万端、宜しく認め得て太だ真たるべからず」
→ 人の心や世の中の様子は、移り変わりが激しく千差万別である。だから、それらを確かなものとして固く信じすぎるべきではない。
「堯夫云う、『昔日、我と云いし所は、而今却って是れ伊』」
→ 北宋の詩人・堯夫(やうふ)はこう言った。「以前“自分”と思っていたあの存在は、今はすっかり別人(彼)になってしまった」。
「知らず、今日の我は、また後来の誰にか属せん」
→ 「今のこの私も、いずれはまた、誰か別人のもののようになってしまうのだろうか」。
「人、常に是の観を作さば、便ち胸中の罥を解却すべし」
→ このような見方をいつも心に持てば、胸の中に絡まる執着や煩悩も自然にほどけていくだろう。
用語解説
- 倐忽(しゅくこつ):変化が激しいさま。一瞬ごとに移ろうさま。
- 万端(ばんたん):あらゆること、多様な変化。
- 太眞(たいしん):あまりに“真実”と思い込みすぎること。執着や絶対視。
- 堯夫(ぎょうふ):北宋の詩人「邵雍(しょうよう/号:堯夫)」、易や宇宙観を説いた思想家。
- 伊(い):あの人、他人のこと。「我」に対する「彼」。
- 罥(けん):網や絡まり。転じて、心の中にある執着・煩悩・思い込み。
- 解却(げきゃく):ほどいて捨て去ること。
全体の現代語訳(まとめ)
人の心や世間のありようは目まぐるしく変化し続けるもので、それを「これが真実だ」と思い込むのは危うい。
堯夫は言った──「かつて“これが自分だ”と思っていた存在が、いまやすっかり他人のようだ。では、今日の私は、将来いったい誰のものになるのか」
このように人生の無常や移ろいを観じていれば、心の中の執着や迷いは自然と解けていくだろう。
解釈と現代的意義
この章句は、「変化こそ常態である」ことを認識し、“自己”という概念に対する執着を手放す智慧を説いています。
- かつての自分と今の自分が違うように、
- 今の自分もやがて変わり、誰かの記憶や影のようになる。
これはまさに仏教の「無我・無常」の思想であり、
同時に、「人生の執着・悩みは“自己”という幻想にとらわれることから始まる」という教えでもあります。
ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)
1. 「役職・成果・肩書は“一時の姿”にすぎない」
“いまの自分”が部長・マネージャー・起業家であっても、それは本質的な“自己”ではなく、流転する一つの状態にすぎません。
これを理解すれば、慢心・恐れ・執着から解放され、柔軟で誠実なリーダーシップが育ちます。
2. 「変化を前提にした“脱・固定化マインド”」
「今の自分が絶対」「この関係が永久」と思い込むと、変化に耐えられず、苦しみやトラブルが増します。
「常に変わるもの」と見れば、物事を柔軟に受け入れ、ストレス耐性も上がります。
3. 「過去の自分・他人への執着を和らげる」
「あのときの自分は…」「あの人はかつて…」という思い込みが心を縛ることがあります。
でも、“昔の私”も“今のあの人”もすでに変わっていると知れば、過去へのとらわれや恨みも自然とほどけていきます。
ビジネス用の心得タイトル
「変わる自分にとらわれるな──“今”は一時の借り姿」
この章句は、「自我の絶対視をほどき、変化を自然に受け入れることで、心の自由を得る」という、
東洋的な心の処方箋です。
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