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手段に執着せず、目的を見失わない

悟った人とは、手段と目的の違いを深く理解している人である。
たとえば、いま筏に乗ったばかりでも、もうすでに「目的地に着いたらすぐに筏を降りよう」と心の準備をしている人。
彼は、筏があくまで渡るための道具にすぎないとわかっている。

これに対して、もうろばに乗っているのに、なおも「ろばはどこか」と探し続けている人がいる。
こういう人は、禅の本質を理解できないまま、教えの表層にとらわれて迷い続ける「不了の禅師」となるだろう。

「纔(わず)かに筏(いかだ)に就(つ)いて、便(すなわ)ち筏を舎(す)てんことを思(おも)わば、方(まさ)に是(こ)れ無事(ぶじ)の道人(どうじん)なり。若(も)し驢(ろば)に騎(の)りて、又(また)復(ま)た驢を覔(もと)むれば、終(つい)に不了(ふりょう)の禅師(ぜんじ)と為(な)らん。」

手段にしがみつくことは、かえって本来の目的を見失うことにつながる。
悟りとは、執着から離れること。道具に過ぎないものは、必要が終われば手放す勇気を持つべきである。


※注:

  • 「無事の道人(ぶじのどうじん)」…心が平穏で、迷いを超えた悟りの境地に達した人。釈尊が説いたように、仏教の教え自体も筏であり、悟りのための手段にすぎない。
  • 「不了(ふりょう)」…悟ることができない。迷いのまま終わる状態。
  • 「驢に騎りて驢を覔む」…すでに真理を得ているのに、そのことに気づかず探し続ける愚かさ。禅の世界で戒めとして語られる表現。
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