斉の宣王は孟子に尋ねた。
「王者の政治とはどのようなものか、お聞かせいただけるだろうか」
孟子は即座に答える。
「それでは、かつて周の文王が諸侯の一人として岐(き)を治めていたときの政治を例に挙げましょう」
文王の政治とは以下のようなものであった:
文王の統治の特徴
- 税制の軽減:農民には収穫の九分の一という軽い税を課した(井田制)。
- 官僚の安定:役人には世襲の俸禄を与え、生活を保障した。
- 経済の自由化:関所や市場では悪人だけを取り締まり、通行税や物品税は取らなかった。
- 自然資源の解放:池や沼で梁(やな)を設けて魚を捕ることも禁じなかった。
- 刑罰の限定:罪を犯した者がいても、その妻子には連座させなかった。
そして何よりも重要なのが、**「王政は最も弱い者たちから救う」**という姿勢だった。
弱き者への配慮
文王は次のような者たちを特に思いやった:
- 鰥(かん):年老いて妻を亡くした者
- 寡(か):年老いて夫のいない者
- 独(どく):年老いて子どもを持たぬ者
- 孤(こ):幼くして父を失った者
これら四者は、「天下でもっとも困窮し、訴えるすべを持たない人々」であると孟子は言う。
文王が仁政を発したとき、彼は必ずこの四者を真っ先に救った。
それは単なる慈善ではなく、政治の根本であった。
孟子は最後に『詩経』の一句を引用して、その理念を補強する:
「哿(よ)きかな富める人、そのままでよい。
だが、身寄りのない者は憐れまなければならない」
この章は、孟子の仁政思想の核心を簡潔に、かつ力強く語っています。
政治の本質とは、「力を持つ者が、声を持たぬ者を思いやること」。
そしてそれが「王者の道」であると、孟子は断言しています。
原文
王曰:「王政可得聞與?」
對曰:
「昔者文王之治岐也,
耕者九一,仕者世祿,
關市譏而不征,澤梁無禁,罪人不孥。
老而無妻曰鰥,老而無夫曰寡,老而無子曰獨,幼而無父曰孤。
此四者,天下之窮民而無告者也。
文王發政施仁,必先斯四者。
詩云:『哿矣富人,哀此煢獨。』」
書き下し文
王曰く、「王政(おうせい)、聞くことを得べきか。」
対えて曰く、
「昔(むかし)、文王(ぶんおう)の岐(き)を治むるや、
耕す者は九にして一を取り、仕うる者は禄(ろく)を世々にし、
関市(かんし)は譏(せ)して征せず、沢梁(たくりょう)は禁なく、
罪人をして孥(ど)せず。
老いて妻なきを鰥(かん)と曰い、老いて夫なきを寡(か)と曰い、
老いて子なきを独(どく)と曰い、幼にして父なきを孤(こ)と曰う。
此(こ)の四者は、天下の窮民にして告ぐる無き者なり。
文王、政を発(おこ)し仁を施すに、必ず斯(こ)の四者を先にせり。
詩に云う、
『哿(よ)きかな富める人よ、此の煢独(けいどく)を哀れめ。』」
現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 王が言った:「王政とは何か、教えてくれないか?」
- 孟子は答えた:
- 昔、文王が岐の地を治めたとき、
- 農民は収穫の十分の一だけを納め(=軽税)、
- 官僚は代々の禄を受け継ぎ(=生活の安定)、
- 関所や市場では不正だけを取り締まり、税は取らず、
- 河川や渡し場にも通行規制はなく、
- 有罪者が出てもその家族を連座させなかった。
- 昔、文王が岐の地を治めたとき、
- また、社会的に最も弱いとされた、
- 妻のいない老人を「鰥(かん)」といい、
- 夫のいない老女を「寡(か)」といい、
- 子のいない老人を「独(どく)」といい、
- 親を亡くした子供を「孤(こ)」といった。
- この四者は、天下で最も困窮し、訴え出る先もない人々である。
- 文王が政治を行い、仁を施す際は、
必ずこの四者を第一に救済の対象とした。 - 『詩経』にもこうある:
「恵まれた富める者よ、この煢独(孤独な者たち)を憐れめ。」
用語解説
用語 | 解説 |
---|---|
王政(おうせい) | 王道に基づく政治、すなわち仁義による民本主義の統治。 |
岐(き) | 文王が統治していた周の地名。 |
九一(きゅういち) | 十分の一税制。収穫の一割のみを納め、九割は農民が保持。 |
世祿(せいろく) | 官僚が世襲的に生活保障される制度。安定雇用。 |
譏而不征(せしてせいせず) | 違法を摘発しても、無意味な課税はしないこと。 |
澤梁(たくりょう) | 河川や橋梁など、交通や漁猟の場。制限を設けない。 |
罪人不孥(つみびとどせず) | 有罪者の親族・家族に罪を及ぼさない(連座制の否定)。 |
鰥(かん)・寡(か)・独(どく)・孤(こ) | 社会的に孤立した者の典型的な4類型。 |
煢独(けいどく) | 寂しく孤立した人々の意。詩経に登場する語。 |
全体の現代語訳(まとめ)
斉の宣王が孟子に尋ねた:
「王として行うべき政治とは何か?その内容を教えてほしい。」
孟子は答えた:
「かつて文王が岐の地を治めた際、
- 農民には軽い税制(収穫の一割)を、
- 官吏には世襲の報酬制度を保障し、
- 関所や市場では不正だけを摘発し、無用な課税はせず、
- 通行や生活の場に規制を設けず、
- 有罪者が出ても、その家族には罪を及ぼしませんでした。
そして何より、
妻・夫・子・親を失った孤独な人々(鰥・寡・独・孤)を最優先に救いました。
これこそが“仁”をもって行う王政であり、
『詩経』にもあるとおり、豊かな者は孤独な人々を思いやるべきなのです。」
解釈と現代的意義
この章句は、孟子の政治思想の中でも核心的なものです。
- 王政とは「仁」に基づき、「最も弱い者にこそ手を差し伸べる政治」である。
- 形式や制度でなく、まず人間の尊厳と生活を守る政治が本質。
- 富める者が、貧しく声を上げられない者を救う──
これは王政であり、現代にもそのまま通じる原則です。
孟子のこの視点は、現代の社会保障制度や、SDGsの理念にもつながります。
ビジネスにおける解釈と適用
「組織の力は“弱い立場への配慮”で測られる」
- 顧客対応でも、制度設計でも、最も困っている人に目を向けられるかが本質。
「声なき声を聴く仕組みを持て」
- 苦情を言える人よりも、「言えない人」「離れていく人」にどう対応するかが、
本当の“王政”=リーダーシップの試金石。
「理念は実行においてこそ意味を持つ」
- 「仁」や「顧客第一主義」などの言葉も、
実際に最も弱い人に向けた施策がなければ虚言に過ぎない。
まとめ
「仁政の本質は“声なき者への優しさ”にあり」
──最も弱い者を救う力が、真のリーダーの証
この章句は、企業経営においても「誰のために働くのか」「誰を最優先に守るのか」という
根本的な価値観の設計指針になります。
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