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私情を排して公平を貫けば、不満は自然と消える

— 親族よりも功績。信頼はそこから始まる

背景と要旨

貞観元年(627年)、太宗は功臣たちに対し、第一等の勲功として封爵と食実封(実際の税収が伴う封地)を授けた。
この処遇に対して、太宗の叔父・李神通が「自分の方が先に参陣したのに、文官が第一功とは納得できない」と不満を述べた。

しかし、太宗は「賞罰こそが国家の根本であり、それは功績に基づいて行われるべきである」として、親族だからといって優遇すべきではないと毅然と退けた。


ふりがな付き引用

「貞(じょう)観(がん)元年(がんねん)、中書令(ちゅうしょれい)房玄齢(ぼうげんれい)を邢国公(けいこくこう)に、兵部尚書(へいぶしょうしょ)杜如晦(とじょかい)を蔡国公(さいこくこう)に、吏部尚書(りぶしょうしょ)長孫無忌(ちょうそんむき)を斉国公(せいこくこう)に封(ほう)じ、並(なら)びに第一等(だいいっとう)と為(な)して、食邑(しょくゆう)実封(じっぽう)一千三百戸(こ)を与(あた)う。

皇従父(こうじゅうふ)淮安王(わいあんおう)李神通(りしんつう)上言(じょうげん)して曰(いわ)く、
『義旗(ぎき)初(はじ)めて起(お)こるに、臣(しん)は兵(へい)を率(ひき)いて先(さき)に至(いた)れり。今(いま)玄齢等(げんれいら)刀筆(とうひつ)の人(ひと)、功(こう)を第一に居(お)く、臣(しん)は竊(ひそ)かに不服(ふふく)なり』。

太宗(たいそう)曰(いわ)く、
『国家(こっか)の大事(だいじ)は、惟(ただ)賞(しょう)と罰(ばつ)のみ。賞(しょう)は其(そ)の労(ろう)に当(あ)たれば、無功(むこう)の者(もの)は自(おの)ずから退(しりぞ)く。罰(ばつ)は其(そ)の罪(つみ)に当(あ)たれば、悪(あく)を為(な)す者(もの)は皆(みな)懼(おそ)る。
則(すなわ)ち賞罰(しょうばつ)は軽々(けいけい)しく行(おこな)うべからずと知(し)るべし。

今(いま)勲功(くんこう)を計(はか)りて賞(しょう)を行(おこな)うに、玄齢等(げんれいら)には帷幄(いあく)に謀(はか)り、社稷(しゃしょく)を画定(かくてい)する之(こ)の功(こう)有(あ)り。
漢(かん)の蕭何(しょうか)を以(も)てするが如(ごと)く、汗馬(かんば)無(な)けれども、指蹤推轂(ししょうすいこく)して、故(ゆえ)に功(こう)第一(だいいち)に居(お)けり。
叔父(しゅくふ)は国家(こっか)に於(お)いて至親(ししん)なれば、愛惜(あいせき)する無し。ただ私(し)によりて勲臣(くんしん)と同賞(どうしょう)を濫(みだ)りに与(あた)うべからず』。」


教訓と影響

この公平な姿勢により、他の功臣たちは「陛下は最も親しい親族にも私情を挟まなかった」と称賛し、不満を抱く者はなくなった。
また、太宗は改めて「漢代以降、封爵は皇子や兄弟に限られ、大功を立てぬ者は封を受けなかった」と語り、功績のない宗室に授けられていた郡王の封爵を県公へと降格させた。


注釈と典拠の補足

  • 封爵(ほうしゃく)と食実封(しょくじつほう):封爵とは名誉称号、食実封は実際の収入権。例:1300戸からの租税収入を得る。
  • 房玄齢・杜如晦・長孫無忌:いずれも太宗の建国を支えた文官・宰相級の功臣。
  • 蕭何(しょうか):漢の劉邦の参謀。軍功はないが後方から戦略支援を担い、第一の功績者とされた。
  • 李神通(りしんつう):太宗の叔父。隋末の乱で武功を挙げたが、太宗は公平な評価を優先。

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