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正義の名の下に憎しみを抱けば、それはすでに正義ではない


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■引用原文(日本語訳)

「ドリタラーシトラの息子たちを殺して、我らにいかなる喜びがあろうか。
この危害を加えようとする者たちを殺せば、まさに我々に罪悪がかかるであろう。」
―『バガヴァッド・ギーター』第1章 第36節


■逐語訳(一文ずつ)

  • 「たとえ彼らが悪をなす者であっても、
  • ドリタラーシトラの息子たち(=カウラヴァ)を殺して、私たちに何の喜びがあるだろうか?
  • 彼らに危害を加えることで、
  • むしろ私たち自身が罪を負うことになるだろう。」

■用語解説

  • ドリタラーシトラの息子たち:カウラヴァ一族、特にドゥルヨーダナをはじめとする戦争の発端となった側。
  • 危害を加えようとする者たち(アータターヤハ):侵略や不正を働く者たちを指すが、同時に身内であるため、その扱いに葛藤がある。
  • 罪悪(パーパ):単なる法律的な罪ではなく、道徳的・精神的に汚れること、カルマとして負う結果も含む。

■全体の現代語訳(まとめ)

たとえ相手が危害を加えようとする者であったとしても、それが親族である以上、彼らを殺すことで私たちが得るものは何もない。むしろ、そうした行為によって、私たちの心と魂が罪に染まってしまう――アルジュナはそのように考えて、戦うことの正当性そのものに疑念を抱き始めている。


■解釈と現代的意義

この節は、「相手が悪だからといって、正義の名の下に何をしても許されるわけではない」という極めて深い倫理観を示しています。
正義や自己防衛を理由に報復し、相手を徹底的に打ち負かしてしまったとき――本当に正義は守られたのか? 自分自身が“加害者”になっていないか? という、冷徹な自己省察が必要になります。


■ビジネスにおける解釈と適用

観点適用例
道徳的判断のブレーキ相手が不正をしたからといって、自分も同じ手段で報復すれば、自らも不正に染まる。
“勝つ”ことと“正しい”ことの違い訴訟・契約解除・パワープレイなど、合法であっても関係者に深い傷を残すなら再考が必要。
自社の信念と倫理の保持倫理観を貫くことが、一時的な損よりも長期的な信頼と持続性を生む。
リーダーの自制心トラブルの責任を取らせる際も、「正義」の名の下で感情的・報復的にならず、冷静な判断を保つ。

■心得まとめ

「たとえ敵が悪であっても、こちらが正しさを失えば、それは敗北である」
アルジュナは、自らが「正義を行う側」であるという自負すら、冷静に見つめ直している。敵を倒すことが自分の魂を汚すなら、それは正義ではない。現代においても、倫理や信念を超えてまで手に入れたい勝利など、本当の意味では“勝利”ではない。


次の第37節では、アルジュナが「親族を滅ぼすことが家族制度・社会秩序をも崩壊させる」というさらに深い憂慮を述べ始めます。

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