魏徴は、帝王の行動について次のように述べました。
「古来、君主が国を治める際には、天下に広く徳を施し、その賢明さを日月のように輝かせ、子孫の繁栄と国の長久を望んでいます。しかし、そんな願いを持っても、結果として成功を収めた者は少なく、国が滅びることが相次いでいます。その理由は、理想を追い求める方法を誤っているからです。古の歴史を見れば、その教訓を得ることができます。」
魏徴は隋の煬帝を引き合いに出しました。煬帝は天下を統一し、その国力を頼りにして多くの欲望を満たしましたが、民衆を苦しめ、最終的に国を滅ぼしました。
彼が行った豪華な宮殿の建設や贅沢な暮らしは、民の過酷な労働を招き、彼の統治を壊滅的にしました。外見だけは威厳を示しても、内部では信頼関係が崩れ、忠義を尽くす者が命を落とすような状態になり、国は崩壊しました。
魏徴は、この隋の失敗を教訓とし、理想的な君主の姿として、慎ましさと徳の積み重ねを強調しました。君主は欲望を抑え、贅沢を戒め、民を安逸にしながら、国家を守ることが最も高い徳だと述べました。
太宗は、この教えを深く受け入れ、常に慎み、民のために徳を積むことが最も大切であると認識しました。
原文とふりがな付き引用
「貞觀十一年、特進魏徵上疏曰(いわ)く、『臣觀自古(しん かん じ こ)受(うけ)図(と)膺(い)帝位(ていい)を继(つぐ)者(もの)、英雄(えいゆう)を押(おさ)え、南面(なんめん)臨(のぞ)み下(しも)を統(とる)する者(もの)を観(み)たところでは、みな、厚(あつ)い徳(とく)を天下(てんか)に広(ひろ)めようとし、その賢明(けんめい)さを日月(にちげつ)と等(ひと)しくしようとし、子孫(しそん)が永遠(えいえん)に繁栄(はんえい)することや、天子(てんし)の位(くらい)がいつまでも伝(つた)わることを願(ねが)うものです』」
「然(しか)し、終(お)わりを全(まっと)うした者(もの)は少(すく)なく、国(くに)の滅亡(めつぼう)が相(あい)次(つぎ)ている。其(その)理由(りゆう)は何(なに)であろうか。彼(かれ)らの願(ねが)いを追(お)い求(もと)めるのに、その方法(ほうほう)が誤(あやま)っているからです』」
「昔(むかし)、隋(ずい)は天下(てんか)を統一(とういつ)し、その兵力(へいりょく)ははなはだ強(つよ)く、三十余年(さんじゅう よねん)の間(あいだ)、その勢い(いきおい)は万里(ばんり)におよび、その脅威(きょうい)は異民族(いみんぞく)にまで轟(とどろ)きました」
「あの煬帝(ようてい)が、どうして天下(てんか)の平安(へいあん)を憎(にく)み、国(くに)の長久(ちょうきゅう)を願(ねが)わなかったでしょうか」
注釈
- 厚い徳(あついとく)…君主が民に広めるべき道徳的な徳。国家を治める基本となるもの。
- 賢明さ(けんめいさ)…君主の智慧。日月のように明るく、誰もがその徳を知るべきであるという理想的な指導力を意味します。
- 煬帝(ようてい)…隋の煬帝。贅沢と自己中心的な統治によって国を滅ぼしたとして、しばしば警鐘として取り上げられる人物。
- 隋の滅亡…煬帝が豪華な宮殿を建設し、民を過酷に働かせ、最終的に国を滅ぼした事例は、理想的な君主像との対比で描かれます。
- 高い徳(たかいとく)…君主が求めるべき最上の徳。贅沢を控え、民を守るための徳を積むことの重要性を示しています。
『貞観政要』巻一「魏徵の十思疏」より
1. 原文
(※要所を抜粋しつつ、一部省略表記)
貞觀十一年、特詔魏徵上疏曰:
「臣觀自古受圖膺運、繼體守文、控御英雄、南面臨下、皆欲配厚德於天地、齊高明於日月、本支百世、傳祚無窮。然而克終者鮮、敗亡相繼、其故何哉。以臣觀之、失其所以也。…
昔在有隋…一旦舉而棄之…恃其富強、不慮後患…民不堪命、疆土分崩…可不痛哉!
今宮觀臺榭、盡居之矣…若能鑒彼之所以失、念我之所以得、日愼一日、雖休勿休…德之上也。…
【十思】
臣又聞:求木之長者、必固其根本;欲流之遠者、必浚其泉源;思國之安者、必積其德義。…君人者:
- 能見可欲,則思知足以自戒
- 將有作,則思知止以安人
- 念高危,則思謙冲以自牧
- 懼滿溢,則思江海下百川
- 樂盤遊,則思三驅以為度
- 憂懈怠,則思慎始而敬終
- 慮壅蔽,則思虛心以納下
- 想讒邪,則思正身以黜惡
- 恩加者,則思無因喜以謬賞
- 罰及者,則思無因怒而濫刑
総此十思、弘茲九德、簡能而任之、擇善而從之。…」
太宗手詔答曰:
「省頻抗表、極忠款、言窮切至。…當置之几案、事等弦韋。…虛襟靜志、敬佇德音。」
2. 書き下し文
貞観十一年、特に魏徵に詔して疏を上せしむ。
「臣は観るに、自古より帝位を受け、天下を掌(つかさど)り、世を治めし者は皆、天地の徳に匹敵し、日月の明に等しくあらんことを願い、百世に伝えて無窮の祚(しょ)を継がんと欲す。然れども、終わりを克(よ)くする者はまれにして、敗亡相次ぐ。何の故ぞや。臣の見る所によれば、その所以を失えるがゆえなり。…
【十思】
臣また聞く、木の長きを求むる者は、必ずその根を固うす。水の遠きを欲する者は、必ずその泉源を深うす。国の安きを思う者は、必ずその徳義を積む。
君主たる者は:
- 欲するところを見る時は、知足を思い自らを戒め
- 事を起こさんとすれば、知止を思いて民を安んじ
- 高く危うきを思い、謙遜にして自らを律し
- 満つることを恐れ、江海のように人の下に処し
- 遊びを楽しむ時には、節度ある三驅(さんく)を思い
- 怠るを憂い、始めを慎み終わりを敬す
- 壅蔽を慮れば、虚心にして下の言を納れ
- 讒邪を想えば、身を正して悪を除き
- 恩を加えんとすれば、喜によりて誤賞せざるを思い
- 罰を及ぼさんとすれば、怒によりて濫刑せざるを思う
この十の心得を総じて実践し、九徳を弘め、賢能を簡(えら)びてこれに任じ、善を択びてこれに従えば…」
太宗の返詔:
「しばしば表を奉り、忠誠極まり、言は切至を尽くす。…几案に置き、糸と皮のように事ごとに用いん…心を空にして徳音を待つ。」
3. 現代語訳(逐語)
(抜粋のみ)
- 「求木之長者、必固其根本」
→ 木を高く育てようと思えば、まず根をしっかり張らねばならない。 - 「欲流之遠者、必浚其泉源」
→ 水を遠くに流したければ、その源を深く掘らねばならない。 - 「思國之安者、必積其德義」
→ 国を安定させたいならば、日頃から徳と義を積むことが肝要である。 - 「雖休勿休」
→ 安泰に見えても油断せず、常に慎むべし。 - 「鳴琴垂拱、不言而治」
→ 琴を弾き、手を組んで治める(=無為自然の境地)。
4. 用語解説
用語 | 意味 |
---|---|
十思 | 君主が常に思うべき十の心得。魏徵の独自提言 |
垂拱(すいきょう) | 手を前で組んで静かに治める。理想的な無為の統治 |
桀紂(けつちゅう) | 暴君の代名詞。桀は夏の、紂は殷の暴君 |
殞(う) | 滅びる、亡びる |
絲韋(けんい) | 楽器の弦とその皮の意。事務の比喩として用いられる |
5. 全体の現代語訳(まとめ)
魏徵はこの上疏で、歴代の王朝がなぜ滅びたかを深く分析し、唐の太宗に対して深い戒めの言葉を述べました。天下統一や繁栄に浮かれて慢心すれば、やがては人心が離れ、国は崩壊する。そうならないために、「日々慎み、常に徳を積むこと」が何より大切だと強調します。
さらに、君主のあるべき思考法として「十思」を説き、自戒・慎独・節度・謙虚・公平・感謝・正直・無怒・無私の統治哲学を打ち立てました。
太宗はその忠言に深く感銘を受け、「この上疏は常に机に置き、政務の糧とする」として高く評価しました。
6. 解釈と現代的意義
この「十思疏」は、リーダーの思考訓練マニュアルとして現代でもそのまま通用します。魏徵は「感情による賞罰を戒めよ」「驕りに陥るな」「現場の声に耳を傾けよ」「楽しみすぎることも慎め」と、まさにリーダーが陥りがちな落とし穴をひとつずつ具体的に示し、それをどう防ぐべきかを体系的に述べています。
7. ビジネスにおける解釈と適用
- 「大組織こそ日々の慎みが命」
企業が成長してからが本当の試練。「よき時に崩れる」のが大半の企業である。 - 「『十思』は経営者の毎朝リマインダー」
過剰な褒賞・不適切な人事・部下の声の遮断は、どれも一つひとつは小さくても、積み重ねが致命的になる。 - 「成果で驕らず、創業の志を忘れず」
社長・上層部は、初心を忘れずに“下に処する徳”を持ち、現場の苦労を常に想像するべき。
8. ビジネス用の心得タイトル
「日々慎み、賞も罰も私すべからず──リーダーの“十思”が組織を守る」
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