孟子はこの章で、性善説の立場を明確にしつつ、他の三説に正面から反論します。
多くの人が「善にも不善にもなり得る」「人には善悪のタイプがある」と考える中、孟子は一貫して主張します――
人の“本性”とは、善を行おうとする「情」そのものである。
不善をなすのは、本性が損なわれた結果にすぎない。
公都子の問い:三説との違いを問う
孟子の弟子・公都子は、当時議論されていた3つの本性論を挙げます:
- 告子説:「性には善も不善もない」
- 二面性説:「善にも不善にもなれる(環境次第)」
- タイプ分化説:「性が善な者もいれば、不善な者もいる」
たとえば――
- 堯のような聖王の下にいても、悪人の象が生まれる。
- 暴君の紂のもとにいても、微子啓や比干のような賢者がいる。
これらを引き合いに出しつつ、公都子は問いかけます:
「先生の性善説が正しいとすれば、これらの考えはすべて間違いなのでしょうか?」
孟子の答え:本性とは「情」、才の問題ではない
孟子はきっぱりと答えます:
「性とは、人間の本質的な“情”のことであり、それは善を行う傾向を持っている。
だからこそ性は善だと言えるのだ。
不善が現れることもあるが、それは**“才(はたらき)”のせいではない**。
外の環境や物欲が、本性をくらませているにすぎない」。
つまり孟子は、次のように明確に区別している:
- 性(本質)=善を求める心=情
- 才(能力)=表に現れる行動のかたち
- 不善=性に由来するのではなく、外的要因による
これは、**「迷うことがあっても、本性は常に善を向いている」**という孟子の人間観に基づく解釈です。
出典原文(ふりがな付き)
公都子(こうとし)曰(いわ)く、告子(こくし)曰(いわ)く、性(せい)は善(ぜん)も無(な)く、不善(ふぜん)も無し。
或(ある)いは曰く、性は以(もっ)て善を為(な)すべく、以て不善を為すべし。
是(こ)の故(ゆえ)に、文・武(ぶ)興(お)これば則(すなわ)ち民(たみ)善を好(この)み、幽・厲(ゆう・れい)興これば則ち民暴(ぼう)を好む。
或いは曰く、性善なる有り、性不善なる有り。
是の故に堯(ぎょう)を以て君(きみ)と為して象(しょう)有り。
瞽瞍(こそう)を以て父と為して舜(しゅん)有り。
紂(ちゅう)を以て兄の子と為し、且(か)つ以て君と為して微子啓(びしけい)・王子比干(おうしひかん)有り、と。
今、性は善なりと曰う。然らば則ち彼(かれ)は皆非(ひ)なるか。
孟子(もうし)曰(いわ)く、乃(すなわ)ち其の情(じょう)の若(ごと)きは、則ち以て善を為すべし。
乃ち所謂(いわゆる)善なり。夫(そ)れ不善を為すが若きは、才(さい)の罪(つみ)に非(あら)ざるなり。
注釈
- 情(じょう):人の本質から自然にあらわれる感情。善を求める動き。
- 才(さい):本性の表現・はたらき。行動のレベル。
- 性善説:人の本性はもともと善であり、教育や環境でより良く導けるという考え。
- 本性論三説:
- 中立説(告子)
- 環境説(二面性)
- タイプ論(人によって違う)
パーマリンク候補(英語スラッグ)
human-nature-is-inherently-good
孟子の性善説の核心をそのまま明言したスラッグ。
その他の候補:
- not-evil-by-nature(悪は本性からではない)
- goodness-clouded-not-lost(善は曇るが失われない)
- virtue-from-essence(徳は本質から)
この章は、孟子の性善説を理論的に正面から補強する要所です。
たとえ現実に不善が現れても、それは人の本性を否定する根拠にはならない。
むしろ、正しく導けば誰もが善に至れるという孟子の教育哲学・政治理念に深く結びついています。
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