― 仕えるにも、交わるにも、道義に外れた相手ではならぬ ―
孟子は、伯夷という古代の聖人を例に挙げ、その徹底した道義的選択の姿勢をこう紹介します。
伯夷の四つの姿勢
- 正しき君でなければ仕えず
→ ただ地位や権力ではなく、「仁と義」に適った君であるかを重視した。 - 徳のない者とは交わらず
→ 友を選ぶ基準も「徳」のある人物かどうか。 - 悪人が仕える朝廷には自ら立たず
→ そのような環境に身を置くこと自体、自らの品格を汚すことになると考えた。 - 悪人と口をきくことすら避ける
→ 会話を交わすことさえ、価値判断として許されないとした。
不義の場に加わるのは「朝服で泥に座る」ようなもの
孟子はこの姿勢をたとえて言う:
「悪人の朝廷に仕えることや、悪人と語らうことは、
礼装(朝衣朝冠)をまとって、泥や炭(塗炭)の中に腰を下ろすようなものだ」
つまり、その場の「不義」に自分の人格までもが汚されてしまうという強い警戒心です。
冠が曲がっているだけでその場を離れる
さらに孟子は伯夷の潔癖な態度をこう描きます:
「同郷人の冠が礼法に沿っていなければ、伯夷は後ろも振り返らず立ち去った」
その理由は明確です――
「その人と共にいることで、自分も“浼(けが)される”と思ったから」
つまり、形式でさえ道義に反すれば、それは“徳の汚染”になりかねないという緊張感があるのです。
礼を尽くされても、心がなければ断る
伯夷の厳格さはさらに徹底しており、
- 諸侯がどれほど丁重な言葉や使節で招聘しても、
- もしその君主が「徳なき人物」であれば――
「それに応じることを“屑(せつ)とせず”=潔しとしなかった」
孟子は伯夷の態度を、**「道義に反する者に近づくことは、そもそも論外である」**という、
“負の関係性”を避ける高潔な判断として称賛しているのです。
原文(ふりがな付き引用)
「孟子(もうし)曰(い)わく、
伯夷(はくい)は、其(そ)の君(きみ)に非(あら)ざれば事(つか)えず、
其の友(とも)に非ざれば友とせず。悪人(あくにん)の朝(ちょう)に立(た)たず。悪人と言(い)わず。
悪人の朝に立ち、悪人と言うは、
朝衣(ちょうい)朝冠(ちょうかん)を以(も)って塗炭(とたん)に坐(ざ)するがごとし。悪(あ)しきを悪(にく)むの心を推(お)して思(おも)えらく――
郷人(きょうじん)と立ちて、其の冠(かんむり)正(ただ)しからざれば、望望然(ぼうぼうぜん)として之を去(さ)る。
将(まさ)に浼(けが)されんとするがごとし。是(こ)の故(ゆえ)に、諸侯(しょこう)其の辞命(じめい)を善(よ)くして至(いた)る者有(あ)りと雖(いえど)も、受(う)けざるなり。
受けざる者は、是れ亦(また)就(つ)くを屑(せつ)しとせざるのみ。」
注釈(簡潔版)
- 朝衣朝冠:礼装。公の場での正装。
- 塗炭(とたん):泥や炭のように汚れた場所。比喩的に「不道徳な場」。
- 望望然(ぼうぼうぜん):さっさと立ち去るさま。後を振り返らず。
- 将に浼されんとするがごとし:まさに汚染されそうになることを恐れるような態度。
- 就くを屑しとせず:そのような仕官を自身の価値にふさわしくないとして断る意。
パーマリンク(英語スラッグ案)
honor-before-ambition
(野心よりも品格を)choose-friends-and-lords-with-virtue
(友と主君は徳で選べ)do-not-sit-in-the-mud-in-ceremonial-robes
(礼服で泥に座るな)
この章は、孟子が伯夷という人物を通じて、
**「人は誰と付き合うか、誰に仕えるかによって、自分自身をも規定してしまう」**という
深い倫理意識を示しています。
現代においても、環境や人間関係の選択が自己形成と切り離せないという観点から、
この教えは私たちの“交友・仕事・社会参加”の指針として力強く響きます。
コメント