天下は財ではなく、民心によりて保たれる
貞観十一年、侍御史・馬周は、太宗の治世に潜む危うさを真っ向から諫言した。
太宗が天下を平定した功績は確かであるが、徳がまだ十分に積まれていないため、民の信頼が揺らぎつつあることを訴えた。
表向きの治安とは裏腹に、公共事業や労役の過多により、民は疲弊し、怨嗟の声をあげていたのである。
馬周は、歴代王朝の盛衰を引き合いに出し、**政治の根本は「民に恩恵を施すこと」**にあると説く。
隋や北斉が短命に終わったのは、創業の皇帝が徳を積まず、人民を顧みなかったからであるとし、
「政治は正すべき時に正さねばならず、混乱が起きてからでは遅い」と強く戒めた。
また、太宗自身が即位初期に示した倹約と慈愛の政治を「戻るべき理想」とし、過去の自分を手本とせよと促した。
太宗はこれを読み、ようやく民の怨みの深さに気づき、即座に贅沢な造営を中止させた。
この章が伝えるのは、治世の安定とは、制度や繁栄の外形ではなく、民の感情と実感にこそ宿るという深い教訓である。
為政者にとって、「今、民は幸せか」を問い続けることこそが、永続する国家の土台となる。
出典(ふりがな付き引用)
「臣(しん)歴(れき)に代(だい)を覩(み)るに、自(よ)りて夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)・漢(かん)に至(いた)るまで、天下(てんか)を有(ゆう)すること、伝祚(でんそ)相継(あいつ)げり」
「今(いま)、陛下(へいか)は大功(たいこう)を以(もっ)て天下(てんか)を定(さだ)めたれども、徳(とく)を積(つ)むこと日(ひ)浅(あさ)し」
「民(たみ)の怨嗟(えんさ)、往(い)きて問(と)うに、四、五年(ねん)来(らい)絶(た)えず」
「倹(けん)にして人(ひと)を息(やす)めば、一日(いちにち)これを行(おこな)うとも、天下(てんか)知(し)りて歌(うた)い舞(ま)わん」
「今(いま)の民(たみ)は、豊(ゆた)かになれども心(こころ)安(やす)からず、陛下(へいか)の憐(あわ)れみを信(しん)ぜず」
注釈
- 積徳累業(せきとくるいぎょう):徳を積み重ね、善政を継続すること。
- 貞観の初(しょ):太宗の即位初期、倹約と民への配慮が徹底されていた時期。
- 徭役(ようえき):公共事業のために徴発される労働。過剰になれば民の疲弊を招く。
- 怨嗟(えんさ):民衆の不満と嘆きの声。
- 倹にして人を息む(けんにしてひとをやすむ):贅沢を避け、民を休ませること。善政の根幹。
- 教化(きょうか):政策や道徳によって民を導くこと。
パーマリンク(スラッグ)案
heed-the-people
(民の声に耳を傾けよ)virtue-before-glory
(功績よりも徳を積め)early-warning-from-the-masses
(民の声は国の警鐘)
この章は、**「国を治める者の真価は、民の暮らしにあらわれる」**という思想を最も深く突いたものであり、
いかに立派な制度や業績があっても、それが民に届いていなければ、それは虚像にすぎないことを教えてくれます。
コメント