カルマ・ヨーガとは、結果を求めることではない。
それは「行いの結果」に執着せず、「なすべきこと」を静かに果たす生き方である。
それ故、執着することなく、常に、なすべき行為を遂行せよ。実に、執着なしに行為を行えば、人は最高の存在に達する。(第 3章 19節)
多くの行動は、「これをすれば、あれが手に入るだろう」という期待から始まる。
その期待が裏切られれば、不満や怒りが生まれ、さらなる欲望が生まれていく。
心は次第に、穏やかさを失い、欲に駆られ、他人と自分を比べ、苦しみを深めていく。
カルマ・ヨーガの実践は、この苦しみの連鎖を断ち切る方法である。
その要点は、三つの柱に集約される。
一、好き嫌いを超えて、できごとを受けとめること
目の前に現れた結果は、イーシュヴァラ(宇宙の秩序)からもたらされた**プラサーダ(贈り物)**である。
「好きか、嫌いか」「得か、損か」という基準ではなく、ただそれを「今、自分に与えられたもの」として受けとめよ。
そこに執着や拒絶を加えれば、心の静けさは失われる。
二、なすべきことを、誠実に果たすこと
未来の結果に心を奪われず、「今、この瞬間、果たすべき義務」に集中すること。
その行いは、家族への責任かもしれない。職場での役割かもしれない。内なる声に従う行動かもしれない。
いずれにしても、結果ではなく姿勢が、自分をつくる。
三、結果への執着を手放すこと
私たちがコントロールできるのは「行い」だけである。
「行いの結果」は、自らの手を離れており、イーシュヴァラの領域である。
それを受け入れ、委ねることで、心は軽やかになり、静けさを取り戻す。
このようにカルマ・ヨーガを繰り返すと、心の中に**ヴィヴェーカ(見極める力)**が生まれてくる。
それは、表面的な損得を超えた、本質を見る力である。
●すべきことと、すべきでないこと
●永遠に価値あるものと、すぐに失われるもの
それらを見抜く目が、自分の中に育ち始める。
そして、その目が育ったときこそ、「ブラフマンの知識」は真に理解される。
カルマ・ヨーガとは、知識の準備であり、自由への道である。
結果ではなく、いまこの瞬間の誠実さにこそ、人間の尊厳は宿る。
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