孔子の弟子・伯牛(はくぎゅう/冉伯牛)が重い病にかかったとき、孔子はその見舞いに訪れた。
窓の外から手を差し入れ、伯牛の手をしっかりと握りしめて、孔子は悲痛な言葉を繰り返した。
「こんなに立派な人が、こんな病にかかるなんて……
これが天命というものなのだろうか……
この人が……この人が、こんな病に……」
これは、ただの嘆きではない。理知と礼節を重んじる孔子が、理屈では割り切れない悲しみを、言葉と涙であらわした瞬間である。
運命であると頭では理解していても、それでもなお悔しく、惜しい――その心の揺れこそが、人としての真の温かさであり、弟子への深い愛情の証である。
孔子は、「天命に従う」ことを教えていた。しかし同時に、「感情を殺すこと」までは決して求めなかった。
悲しむべきときに、共に悔しみ、惜しむ。そうした情の深さが、仁の心の一つのかたちである。
ふりがな付き原文
伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)有(あ)り。
子(し)之(これ)を問(と)い、牖(まど)自(よ)り其(そ)の手を執(と)りて曰(いわ)く、
之(こ)れを亡(うしな)わん。命(めい)なるかな。
斯(こ)の人(ひと)にして斯(こ)の疾(やまい)有(あ)り。
斯の人にして斯の疾有りとは。
注釈
- 伯牛(はくぎゅう):冉伯牛(ぜんはくぎゅう)。孔子の弟子で、人徳ある人物として知られる。
- 牖(まど)より手を執る:病床に近づけない状況で、窓から手を差し伸べて励ます行為。深い思いやりを表している。
- 之を亡わん:この人を失うことになるのかという、悔しさと悲しみの嘆き。
- 命なるかな:これが天命なのだろうか、という無念と受容が混じった表現。
- 斯の人にして斯の疾:これほどの人物が、こんな病に――という惜しみと不条理への戸惑い。
1. 原文
季氏使閔子騫爲費宰。閔子騫曰、善爲我辭焉。如有復我者、則吾必在汶上矣。
2. 書き下し文
季氏(きし)、閔子騫(びんしけん)をして費(ひ)の宰(さい)と為(な)らしめんとす。
閔子騫、曰(いわ)く、「善(よ)く我(われ)が為(ため)に辞(じ)せよ。如(も)し我を復(また)びする者有(あ)らば、則(すなわ)ち吾(われ)は必(かなら)ず汶(ぶん)の上(ほとり)に在(あ)らん。」
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 季氏、閔子騫をして費の宰と為らしめんとす。
→ 季氏(魯国の実力者一族)は、閔子騫に費の町の長官(宰)をやらせようとした。 - 閔子騫曰く、善く我が為に辞せよ。
→ 閔子騫は言った。「私の代わりに、丁寧に断っておいてくれ。」 - 如し我を復びする者有らば、則ち吾は必ず汶の上に在らん。
→ 「もしまた私を任命しようとする者がいれば、私は汶水のほとりに隠れてしまうだろう。」
4. 用語解説
- 季氏(きし):魯国の大臣家で実権を握っていた有力氏族。
- 閔子騫(びんしけん):孔子の高弟。品行方正、謙虚で清廉な人物。
- 費(ひ):魯国に属する町の名。政治的な職務(宰=町長)を担う場所。
- 宰(さい):地方長官。町や地域を統治・管理する役職。
- 辞する:辞退すること。ここでは職務を固辞するという意味。
- 汶(ぶん)の上:汶水(ぶんすい)の川辺。隠棲・隠遁の象徴として用いられる。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
魯国の権力者である季氏が、孔子の弟子・閔子騫に地方官として費の町の長官職を任せようとした。
それに対して閔子騫はこう言った。
「私の代わりに、丁寧にお断りしておいてください。
もしまた誰かが私にその役職を与えようとするなら、私は汶水のほとりに引きこもって、もう人前には出ません。」
6. 解釈と現代的意義
この章句は、閔子騫の高潔な人格と政治的慎み、あるいは信念に基づいた職務辞退の決意を表したものです。
- 彼は権力欲や私利私欲に動かされることなく、「自らが望まぬ職には就かない」信念を貫いています。
- また、当時の季氏の政治的在り方に不信や違和感があったと読み取ることも可能です。
- 職位よりも生き方の美学を重視する姿勢は、現代にも強い示唆を与えます。
7. ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)
● 「役職・肩書きよりも、“自分の信念”に従って生きる」
- 昇進や役職が必ずしも「成功」ではない。信頼できぬ体制や理念に合わぬ組織であれば、受けるべきでない選択もある。
● 「本質的に貢献できないポジションは、あえて断る勇気を」
- 自分の能力・志にそぐわない役割を断ることも、キャリア戦略の一環。
- 「損な役回り」や「名ばかりの地位」を避ける判断もまた、成熟したビジネス判断。
● 「心の逃げ場=“汶の上”を持つという発想」
- 追い詰められたときのために、物理的・心理的に退ける場所(趣味・自然・学び)を持つことの大切さ。
8. ビジネス用の心得タイトル付き
「地位より信念──断る勇気が、真の人格を育てる」
この章句は、**“権力に対する態度”や“自律したキャリア選択”**を考えるうえで示唆に富むものです。
リーダー研修や「断る力を鍛える自己主張トレーニング」などにも応用可能です。
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