本当の「恩恵」とは、与えたことを自分でも意識せず、相手からの感謝すら期待しない時にはじめて、尊く価値あるものとなる。
どれほど小さな施しであっても、それが無欲で純粋な心から出たものであれば、万金に値する徳となる。
逆に、施しの大きさを計算し、返礼を期待するようでは、たとえ百鎰(ばくい)に及ぶ莫大な富を与えたとしても、その徳は無に等しい。
与えるとは、損得の取引ではない。そこに「計り」や「責め」が生じた瞬間、善意は自己中心に変わる。
ただ静かに、自然に与えること——それが本当の「施恩」である。
原文とふりがな付き引用
恩(おん)を施(ほどこ)す者(もの)は、内(うち)に己(おのれ)を見(み)ず、外(そと)に人(ひと)を見(み)ざれば、即(すなわ)ち斗粟(とぞく)も万鍾(ばんしょう)の恵(めぐ)みに当(あ)たるべし。
物(もの)を利(り)する者(もの)は、己(おのれ)の施(ほどこ)しを計(はか)り、人(ひと)の報(むく)いを責(せ)むれば、百鎰(ひゃくい)と雖(い)も一文(いちもん)の功(こう)を成(な)し難(がた)し。
注釈(簡潔に)
- 内に己を見ず:自分が「してやった」と意識しないこと。
- 外に人を見ず:相手の反応や見返りを期待しないこと。
- 斗粟(とぞく):ごくわずかな施し。斗=一升、粟=アワ。極めて小さなものの例え。
- 万鍾(ばんしょう):非常に多くの贈り物。量の多さよりも心の質を重視することを示す。
- 百鎰(ひゃくい):重さの単位「鎰(いち)」×100。つまり非常に高価な財宝。
- 一文(いちもん):極めて小さな価値すら生まれないことのたとえ。
コメント