—帝王であっても、己を見失えば人の笑い草となる
太宗は、周と秦、桀王・紂王と孔門の弟子たちを比較しながら、善政の継続こそが国の長久をもたらし、悪政と驕慢は速やかな滅びを呼ぶと自省した。
「私は常に古の王を鑑として己を戒めているが、それでも笑われるのではと恐れている」と語った。
それに対し魏徴は、魯の哀公と孔子の逸話を引用して応じる。
「妻を忘れる者が愚かなら、自分自身を忘れた桀・紂はもっと愚かです」と。
その言葉には、「常に己を省みる者こそ、真に恥を免れる」との戒めが込められている。
原文(ふりがな付き引用)
「周(しゅう)・秦(しん)、初(はじ)めて天下(てんか)を得(え)しこと、其(そ)の事(こと)異(こと)ならず。
然(しか)れども周(しゅう)はただ善(ぜん)を是(こ)れ務(つと)め、功(こう)を積(つ)み徳(とく)を累(かさ)ね、以(もっ)て八百(はっぴゃく)の基(もとい)を保(たも)つ。
秦(しん)は乃(すなわ)ち其(そ)の奢淫(しゃいん)を恣(ほしいまま)にし、好(この)んで刑罰(けいばつ)を行(おこな)い、二世(にせい)にして滅(ほろ)ぶ」
…
「魯哀公(ろあいこう)、孔子(こうし)に謂(い)いて曰(いわ)く、
『好(わす)れやすき者(もの)有(あ)り、宅(たく)を移(うつ)して乃(すなわ)ち其(そ)の妻(つま)を忘(わす)る』と。
孔子曰、『又(また)此(これ)より甚(はなは)だしき者(もの)有(あ)り。
丘(きゅう)、桀(けつ)・紂(ちゅう)の君(きみ)を見(み)れば、乃(すなわ)ち其(そ)の身(み)を忘(わす)るなり』」
注釈
- 桀王・紂王(けつおう・ちゅうおう):夏・殷の暴君。どちらも国家を滅ぼす原因となった。
- 顔回・閔子騫(がんかい・びんしけん):ともに孔子の高弟。清貧・孝行の模範として称えられる。
- 哀公(あいこう)と孔子の対話:『孔子家語』賢君篇より。記憶を失う人より、自我を見失う君主の危険性を説く逸話。
教訓の核心
- 帝王であっても自省を忘れれば、歴史に恥を刻むこととなる。
- 栄誉は位ではなく、その行いと心に宿る。
- 自分の欲に溺れた君主は、自らを忘れ、国家を失う。
- 過去の聖王と暴君の対比は、為政者にとって最大の鏡である。
対象章句(貞観六年)
貞觀六年、太宗謂侍臣曰:「聞くに『夏・殷・秦、初めて天下を得しとき、その事異ならず。然るに、惟善をこれ務め、功を積み徳を累ねて、以て八百年の基を保つべし。秦は乃ちその奢淫に恣(ほしいまま)にし、刑罰を好み行いて、二世にして滅ぶ』。これ善を為す者は福祚(ふくそ)延長し、悪を為す者は年降りて永からざる所以か。
また聞くに『桀・紂は帝王なり。匹夫に比すれば、辱と為す。顔回・閔子騫(びんしけん)は匹夫なり。帝王に比すれば、栄と為す』と。これまた帝王の深き耻(はじ)なり。毎に此の事を以て鑑戒と為し、常に恐れて忘れず、人に笑われることなかれ」。
魏徵対えて曰く:「臣聞く、『魯の哀公、孔子に謂いて曰く、「人に好婦あり、宅を移して乃ちその妻を与う」』と。孔子曰く、「またこれより甚だしき者あり。丘、桀・紂の君を見るに、乃ちその身を与う」』と。願わくは陛下、毎に此れを以て慮(おもんばか)り、庶(こいねが)わくは後人の笑いを免れんことを」。
1. 書き下し文
貞観六年、太宗が侍臣に言った。
「『夏・殷・秦の建国初期の政策は、いずれも大差なかった。しかし、善政を重ね、功績と徳を積み続ければ、国家は長く安泰となる。だが秦は奢侈に溺れ、刑罰を好み、わずか二代で滅んだ』と聞く。
これは善をなす者には長寿と繁栄が与えられ、悪をなす者にはその寿命が尽きるという証だ。
また『桀・紂は帝王でありながら、民間人に比すれば辱めとなる。顔回や閔子騫は一介の民であれ、帝王と比べて名誉である』とも聞いた。これも帝王にとって深い恥である。
私は常にこの話を戒めとして忘れないようにし、人々に嘲られぬよう努めている。」
魏徵が答えて言った。
「臣はこう聞きました。『魯の哀公が孔子に言った。「ある人が美女を好み、そのために家を移して妻をその男に譲った」と。これに孔子は、「それよりもひどい者がいる。桀や紂は、帝王の座を他人に譲ったのだ」と言った』と。
願わくば、陛下も常にこれを思い、後世の人々の笑いを免れますように。」
2. 現代語訳(逐語・一文ずつ)
- 「夏・殷・秦が天下を得た当初は、政策に大きな違いはなかった」
- 「しかし、善を務めて功績と徳を積んだ国は長く続いた」
- 「秦は奢侈に溺れ、刑罰を濫用し、わずか二代で滅んだ」
- 「これは、善をなす者は繁栄し、悪をなす者は早く滅びることの証拠である」
- 「また『桀・紂は帝王だが、普通の人と比べるとむしろ恥であり、顔回や閔子騫のような民間人のほうが比べれば栄光である』とも聞いた」
- 「このような言葉は、帝王にとって深い恥の戒めである」
- 「私はこれらの事例を常に忘れずに戒めとしており、人に笑われるようなことがあってはならないと思っている」
- 魏徵が言った
「かつて魯の哀公が孔子に『美女を愛する人がいて、そのために家を移して妻を譲った』と話した。孔子は『それよりもひどいのは、桀や紂のように国を滅ぼして自分の身を他人に譲ったような者だ』と答えた」 - 「陛下も常にこうした例を思い返し、後世の人々に嘲られることのないよう心がけていただきたい」
3. 用語解説
- 夏・殷・秦:古代中国の王朝。いずれも最初は善政を行い国を治めたが、最終的には暴政で滅亡。
- 福祚(ふくそ):天から与えられる幸福と長寿。王朝の寿命をも指す。
- 桀・紂:それぞれ夏と殷の最後の暴君。典型的な悪政の象徴。
- 顔回(がんかい)・閔子騫(びんしけん):孔子の高弟であり、人格者として名高い。
- 哀公:魯の国君。孔子と対話した君主としてしばしば登場。
- 丘:孔子の名前、孔丘。
- 譲る(あたう):与える、明け渡す。
4. 全体の現代語訳(まとめ)
太宗は、自分の政治姿勢について深い反省と自戒を語り、過去の暴君たちの失敗から教訓を得ていた。
秦は法治と軍事によって天下を取ったが、奢侈と刑罰を乱用して短命に終わった。
また、暴君であった桀・紂は一国の君主でありながら、人格的には民間人以下だと評価されることもある。
太宗は自らを律し、後人に笑われることのないようにと誓った。
魏徵も孔子の逸話を引用して、「君主は国を滅ぼしてはならない。そうでなければその責任を持てない」と警告した。
5. 解釈と現代的意義
この章句は、トップに立つ者が過去の失敗から学ぶ姿勢を持ち続けなければならないという強いメッセージです。
特に、権力と贅沢に溺れた歴史上の暴君たちと、自らを同一視しないための「自己警戒心」が、良き統治者を形づくる基礎であると説いています。
6. ビジネスにおける解釈と適用
- 成功しても初心を忘れるな
一度の成功に甘んじて奢り、誤った判断を続けると早晩失敗する。 - 歴史から学ぶ力がリーダーの資質
過去の失敗例をよく知り、自らの行動を戒めることが、組織を長続きさせる鍵。 - 地位ではなく人格が評価の基準
役職や肩書よりも、誠実で高潔な人格が最終的に尊敬を集める。 - 「笑われるような経営」を避けるために、常に謙虚さと自省心を持つべき
リーダーのふるまいは、社内外の目にさらされている。慢心すれば信用は一瞬で崩れる。
7. ビジネス用の心得タイトル
「栄誉は功より、徳に宿る」
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