弟子の桃応が孟子に尋ねた。「もし舜が天子となり、司法官の皐陶が法を執り行っているとき、舜の父である瞽瞍(こそう)が人を殺したら、どうなりますか?」
孟子は答える。「皐陶は法に従って、瞽瞍を捕らえるだけだ」。
桃応はさらに聞いた。「ということは、舜はそれを禁じないのですか?」
孟子は言う。「舜がそれを禁じることなどできるだろうか。法は個人が自由に操作してよいものではない。国家には代々引き継がれてきた法がある。舜といえど、それを勝手に曲げることはできない」。
続けて桃応は尋ねる。「では、舜はどうするのですか?」
孟子は答える。「舜は、天下を棄てることなど、破れた草履を捨てるようなものだと思うだろう。そして、父を背負って密かに逃げ、海辺にひっそりと隠れ住み、一生をかけて父に仕える。天下のことなど、忘れてしまうほどに喜んで父に尽くすことだろう」。
「孟子曰く、舜は天下を棄つるを視ること、猶お敝蹝(やぶれた草履)を棄つるがごときなり。窃かに負うて逃れ、海浜に遵いて処り、終身訢然として、楽しんで天下を忘れん」
孟子は、法の尊重と共に、それを超える「親への自然な思い」の力を強く説いている。たとえ自分が天下の支配者であっても、親を想う気持ちがそれを上回るのが「人の情」であり、儒教における仁と孝の実践なのである。
※注:
- 「敝蹝(へいし)」…破れた草履。転じて、価値のないものの比喩。
- 「訢然(きんぜん)」…喜んでいるさま。「欣然」と同義。
- 「瞽瞍(こそう)」…舜の父。盲目であったとされる。
- 『論語』でも「父は子のために隠し、子は父のために隠す」という家族の絆を尊ぶ教えがある。
『孟子』離婁章句下より
1. 原文
桃應問曰、舜爲天子、皐陶爲士、瞽瞍殺人、則如之何。
孟子曰、執之而已矣。
然則舜不禁與。
曰、夫舜惡得而禁之。夫有所受之也。
然則舜如之何。
曰、舜視棄天下、猶棄敝蹝也。
竊負而逃、遵海濱而處、終身訢然、樂而忘天下。
2. 書き下し文
桃応(とうおう)問いて曰く、舜(しゅん)は天子と為り、皐陶(こうよう)は士と為り、瞽瞍(こそう)が人を殺せば、則ち之を如何(いかん)せん。
孟子曰く、「之を執(とら)うのみ」。
然らば則ち舜は之を禁ぜずや。
曰く、「夫(そ)れ舜は悪(いずく)んぞ得て之を禁ぜんや。夫れ受くる所の有るなり」。
然らば則ち舜は之を如何せん。
曰く、「舜は天下を棄つるを視ること、猶(なお)敝蹝(へいし)を棄つるがごときなり。
竊かに負いて逃げ、海浜に遵(したが)いて処り、終身訢然(きんぜん)として、楽しんで天下を忘れん」。
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 「舜が天子となり、皐陶が司法官を務め、父の瞽瞍が人を殺したら、どうするのですか?」
→ 王である舜が、殺人を犯した実父に対し、どう対応すべきかという問い。 - 「孟子は答えた:それは捕まえるだけのことだ。」
→ 舜の父でも、法に則って処罰する。情ではなく法による。 - 「すると舜は父を止めないのですか?」
→ 王である舜が、父の処罰を阻止しないというのか。 - 「孟子は言う:舜にどうしてそれが止められよう。これは彼(皐陶=司法官)の職責だからである。」
→ 権力分立と制度上の責任を示唆。舜が法執行を私的に妨げることは許されない。 - 「では舜はどうするのか?」
→ 個人としてはどうするのかという問い。 - 「舜は天下を棄てることを、ちょうど破れた靴を棄てるように思うだろう。」
→ 父を助けられないなら、王位など執着しない。 - 「こっそり父を背負って逃げ、海辺に隠れて住み、心穏やかに一生を送り、天下のことなど忘れてしまうだろう。」
→ 息子として父への情を尽くす。王である前に“人”である。
4. 用語解説
- 舜(しゅん):古代中国の理想的聖王。儒家が理想とする「孝と治世の融合」を体現した人物。
- 皐陶(こうよう):舜に仕えたとされる司法官・法務担当の聖人。
- 瞽瞍(こそう):舜の父。伝説では盲目で気性が激しく、舜にたびたび危害を加えたとされる。
- 敝蹝(へいし):破れた草鞋。無価値なものの象徴。
- 訢然(きんぜん):満ち足りて安らかにしているさま。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
桃応が孟子に尋ねた:
「舜が天子となり、皐陶が司法官であるとき、舜の父・瞽瞍が人を殺したらどうするのか?」
孟子は答えた:
「それは法に従って捕らえるだけだ。」
「では舜は父を止めないのか?」
「舜にどうしてそれが止められるか。これは皐陶の責任であり、舜は干渉すべきでない。」
「では舜はどうするのか?」
「舜は、王位など破れた履物のようにあっさり捨てて、父をこっそり背負って逃げ、海辺で静かに暮らし、天下のことなど忘れて幸せに暮らすだろう。」
6. 解釈と現代的意義
この章句には、孟子の法と情の両立、政治的倫理と人間的感情の調和という深い哲学が込められています。
- 法治主義の徹底:舜は王として父の処罰に口を出さない
→ 法は個人の感情に左右されるべきでない。これは現代の法治国家の原則に通じる。 - 人間としての情:舜は父を見捨てず、逃れてでも守ろうとする
→ 舜は王位を捨ててでも親を守る。孟子は、法を超える“孝”という徳もまた肯定している。 - 理想的リーダーの姿:責任と人情の二重構造
→ 公(こう)と私(し)、職責と人情の矛盾を受け入れた上で、誠実に対応する人物こそが“大人(たいじん)”である。
7. ビジネスにおける解釈と適用
✅ 「制度を尊重しつつ、人としての情も持て」
マネージャーはルールを運用しながらも、部下や同僚の人間的側面を忘れずに対応すべき。法と情のバランスが信頼を生む。
✅ 「役職に執着せず、原点に立ち返れるか」
舜は“王であること”を捨ててでも守るべき価値(親子の情)を持っていた。リーダーも、役職を超えて貫きたい“人としての志”を持つべき。
✅ 「分権と信頼の統治」
舜は司法を自分の一存で操作しない。各責任者に任せ、権限を分け合い、信頼して組織を運営する姿勢は、現代の理想的マネジメントに通じる。
8. ビジネス用の心得タイトル
「法に従い、情を尽くす──職責と人間性の調和が真の信頼を生む」
この章句は、孟子が理想の政治と人間らしさの両立を描いた感動的な思想の結晶であり、現代のリーダーシップや倫理観にも深い示唆を与えてくれます。
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