人間の「性」は、単なる生まれのままの状態ではない。
告子が「性とは生(いのち)そのもの」だと一般化して論じたのに対し、孟子は論点を鋭く絞り込み、相手の主張を突き崩すことで、自らの性善説を守ろうとした。
そのやりとりには、単なる概念論ではなく、人間理解の根本に対する強烈なこだわりと覚悟がにじんでいる。
告子の主張:生まれつきの状態=本性(性)
告子は言う:
「生(せい)という言葉には、“生まれ持ったもの”という意味がある。
だから、人が生まれたままの持っているすべてを**“性”**というのである」。
つまり、生と性は同義であり、道徳性のような後天的な価値とは別であると主張している。
孟子の反論:概念の混同は危険だ
孟子は即座に問い返す:
「“白”という概念において、羽の白も、雪の白も、玉の白も、同じ“白”であると、あなたは言いますか?」
告子は「その通り」と答えるが、孟子はすかさず論理を展開して突き詰める:
「それならば――
犬の性も牛の性も人の性も、すべて同じ性だということになりますね。
それで本当にいいのですか?」
孟子のこの問いは、性=生まれたままのものという一般化を極端に適用すると、人間と動物の区別がつかなくなるということを突いたもの。
つまり、人の性を「善」と見なす孟子の道徳的立場では、告子の立論は到底受け入れられないのである。
このやりとりは、論理の勝負というより、価値観の衝突であり、孟子が絶対に譲らない思想的な一線を守るために、あえて“いじわる”な論法も辞さない姿が見て取れる。
出典原文(ふりがな付き)
告子(こくし)曰(いわ)く、生(せい)之(これ)を性(せい)と謂(い)う。
孟子(もうし)曰(いわ)く、生之を性と謂うは、猶(なお)お白之を白と謂うがごときか。
曰(いわ)く、然(しか)り。
羽(はね)の白きを白しとするは、雪(ゆき)の白きを白しとするがごとく、
雪の白きを白しとするは、玉(ぎょく)の白きを白しとするがごときか。
曰く、然り。
然(しか)らば則(すなわ)ち、犬(いぬ)の性は猶お牛(うし)の性のごとく、
牛の性は猶お人(ひと)の性のごときか。
注釈
- 性(せい):ここでは「人の本性」=道徳的資質をめぐる議論。
- 白之を白と謂う:外見の共通性(色)を根拠に抽象化された概念を同一視すること。
- 概念の混同:異なる性質を持つものを、表層的な一致で同一視することへの批判。
- 議論のずれ:告子は生理的・自然的な意味で「性」を論じ、孟子は道徳的・倫理的な「性」を論じており、そもそも前提が異なる。
- 孟子の気概:たとえ議論の土俵がずれていても、自らの思想を貫き通す知恵と胆力。
パーマリンク候補(英語スラッグ)
essence-is-not-instinct
「本性(性)は本能ではない」という孟子の批判を端的に表現。
その他の候補:
- not-all-white-is-equal(すべての白が同じではない)
- debate-with-passion(信念をもって論ずる)
- mind-over-biology(生物学より倫理)
この章では、孟子の道徳に対する鋭い洞察と、自説への絶対的な自信、そして論戦を通じて相手を屈服させようとする強い気概がにじみ出ています。
たとえ理屈に難があろうと、「人の本性は善である」という孟子の信念は、曖昧な理屈には譲らない哲学的な断固たる立場として、今なお多くの読者に力強さを与えています。
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