目次
📖 原文引用(『ダンマパダ』第二五章 第362偈)
手を慎み、足を慎み、言葉を慎み、最高に慎み、
内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している――
その人を〈修行僧〉と呼ぶ。
(原文:
Hathasaṃyato pādasaṃyato,
vācāsaṃyato uttamasaṃyato,
ajjhattarato samāhitasamo,
eko santusito tam āhu bhikkhu.
―『Dhammapada』Ch. 25, v.362)
🔍 逐語訳(逐文・簡潔)
- Hatha-saṃyato:手を慎む(制御する)者、
- Pāda-saṃyato:足を慎む者、
- Vācā-saṃyato:言葉を慎む者、
- Uttama-saṃyato:最上の慎しみを持つ者。
- Ajjhattarato:内に喜びを見出す者(内省を楽しむ者)。
- Samāhita-samo:心が統一されている者。
- Eko santusito:独りでいて、満ち足りている者。
- Tam āhu bhikkhu:その人を「比丘(修行者)」と呼ぶ。
📘 用語解説
- 慎む(saṃyato):自分の行為をコントロールし、調和ある状態を保つこと。単なる抑制ではなく、内的な覚醒の表れ。
- 内心に楽しみを持つ(ajjhattarato):外部の刺激ではなく、自己の内面に価値や喜びを見出す姿勢。内省的であること。
- 統一された心(samāhita):雑念や煩悩に乱されない、集中と安定のある精神状態。
- 独りでいること(eko):物理的な孤独というよりは、「執着を離れた自由な心」の象徴。
- 満足している(santusito):自己の置かれた状況に対する受容と平安。欲望からの自由を示す。
🗣️ 全体の現代語訳(まとめ)
身体の動作(手・足)を慎み、言葉を慎み、最高の自己制御を保ち、
外的な刺激に頼らず、心の内に喜びを見出し、心を静かに統一し、
孤独の中にも満足を見出している――
そのような者こそ、本当の意味での〈修行僧〉である。
🧭 解釈と現代的意義
この偈は、外的な制御と内的な充足が調和した状態こそが修行の完成形であることを示しています。
日々の行動を制御し、言葉を選び、心の乱れを抑えた上で、外に依存することなく、内なる静けさと充足感をもって生きる人――それはまさに「動的な瞑想者」「内なる自由人」です。
現代人にとっても、他人の評価や刺激的な情報に振り回されず、「いまここ」で満ち足りていられることは、最大の修養であり、幸福の本質でもあります。
💼 ビジネスにおける解釈と応用
観点 | 応用・実践例 |
---|---|
行動の慎重さ | 感情や勢いに任せず、一つ一つの所作や判断を丁寧に行う(身だしなみ・発言・態度の整え)。 |
内省と内的動機 | 外部からの報酬や評価に依存せず、自分の価値観や使命感から行動するセルフモチベーションの実践。 |
情報過多の脱却 | 常に刺激を求めるマルチタスク思考を手放し、「静かに集中する時間」を意識的に確保する。 |
リーダーのあり方 | 独りで判断を下す場面でも不安に流されず、自己内対話を通じて納得解を見出す精神的成熟。 |
🧠 心得まとめ(ビジネスパーソン向け)
「真の静けさは外に求めるものではない――自らを慎み、内に満ち足りる力こそ、現代の修行である。」
目まぐるしい社会の中でも、自分の行為と言葉を整え、心の静寂を確保し、孤独すら味方にできる人間こそ、信頼されるプロフェッショナルである。
その静けさは、やがて他者を導く「静かな影響力」となる。
この偈は、前節361偈の三業(身・口・意)制御の深化形とも言えます。ご希望があれば、第
コメント